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幻の憧憬  #4


#創作大賞2022


 未だ頑なに世に擦れる気配を見せない英昭も、遅刻、早退、欠席などは一切せず、尋常一様の高校生活を送っていたのだった。
 無論それは快活な様子を表すものでもなかったが、かといって陰に籠るといった卑屈で暗然たる影を落とす不快なものでもなく、意気軒高とは言わないまでも心身共に充実し、自分なりの青春を謳歌していた感触はあった。
 彼が特に精を出していたのはアルバイトだった。親の知り合いを通して紹介して貰った八百屋のバイトを夏休み前ぐらいからし始めていた彼の姿は我ながら惚れ惚れするような、まるで自分ではないような生気に充ち溢れており、親に紹介者、店主店員、客にまで褒め殺しに遭うといった贅沢にも微笑ましい、不甲斐なくも心が宙に浮いたような感覚に襲われていたのだった。
 条件という言い方も憚られるが、仕事に赴く上での基本的な理由の一つに賃金という当たり前の要素がある事は言うまでもない訳だが、それだけで動く英昭でもなかった。
 たとえアルバイトであろうとも、とにかく自分らしく立ち回りたい、快く仕事に従事したいというのが歴とした彼の信条で、金銭主義であると思われる現代の社会構造に対し、決して見栄を張るつもりなどはなかった。
 その理論を額面通りに受け取れば金などには関心が無く、ボランティアでも良いのかといった事務的で打算的な解釈にも行き着く訳だが、そこまで責めるのは酷な気もする。
 ただ彼を突き動かしていた最たる理由はそのような諸問題をも超越するような威風堂々たる店主の貫禄と店員達の優しさ、そして形だけでも親孝行が出来るという自己満足、自己陶酔に浸りたい純粋な気持ちに依る所が多かったと思われる。
 面接の際に二三の質問はされたものの、紹介とはいえ有無を言わさず雇い入れてくれた店主の気っ風の良さは、当時の景気の良さに比例した心意気だけを表しているとは思えなかった。
 その主たる要素は店主の恰幅の良い体型だけに留まらず、有形無形に感じられる厳しくも寛容な精神。それを感覚的に頼もしいと捉える事が出来たからであった。
 つまりは人間としての魅力なのである。その魅力を未だ身に付ける事が出来ていなかった英昭のような者は、またしても他者にあって自分には無いものに惹かれるのであった。
 でもその一方で自分らしく生きて行きたい、自分を確立したいという願望だけは根強く持していた。だからこそその他者との差異が逆に自分を苦しめるのである。
 まだ高校一年生の彼にそこまでの深慮があったかは未知数だが、少なくともその自分に無いものを求め日々葛藤、逡巡し、彷徨っていた感はあった。
 学校から比較的近い位置にある、商店街の入り口付近に店舗を構えるその八百屋は結構繁盛しており、地元では知らぬ者がいないほど有名であった。
 所狭しと店先に並べられたキャベツやレタス、大根、玉葱、胡瓜、筍等数多くの野菜と、西瓜やみかん、葡萄、白桃等の果物はその新鮮で美味しそうな姿を可憐に披露しながら行き交う人々の視線を引いている。
 野菜が好きだった英昭はそれを心地よく感じながら商品の陳列や片付け、店内の掃除などの作業を真面目に熟していたのだが、店主やその奥方が時として見せる、商店街中に木霊すような凄まじいまでの声掛けには少なからず物怖じしていたのだった。
 八百屋の売り子には必須とも思われるこの声掛けを自分などに出来るのか、どういう感じで言えば良いのか、命じられればどうしよう。何れはしなければならないし、今直ぐ率先してしたとしても決しておかしくはないだろう。
 勿論直ぐにはしなかった。それを怖れる要因は言わずもがな恥ずかしいと思ってしまう、彼の小心の為せる業に尽きていたに相違ない。ただどちらかといえば内向的な英昭であっても、通行人や客といった外的に感じる気恥さよりも、寧ろ店の者達がどう思っているか、それを自分自身がどう感じるかという内的な心情を考慮するが故の躊躇いであった。
 だがその懸念はあっさりと解消された。やり手であった店主は店舗での小売りだけに満足せず、飲食店や大手企業などにも商品を卸し、事業拡大を図っていたのだった。
 既に倉庫や工場が別の場所にあり、そこには玉葱の皮むき機も設置され、パートの主婦やバイトの学生達など、多くの者が勤務していた。
 真面目にも朗らかな様子で逞しく働く彼等の姿は爽快に映る。軽快に挨拶を交わす英昭は先輩に習い仕事を覚えて行く。先輩の気優しい性格は英昭に他意を持たせなかった。
 侮る訳でもないが仕事といっても玉葱を機械に入れたり、籠一杯に詰められた商品を大型の冷蔵庫からトラックに積んだりといった単純作業が殆どで、必要とされるのはヤル気と体力だけのように思える。
 一応その二つを持していた英昭は何ら躊躇する事なく作業に邁進する。そんな単純作業でもその人生に於いて初めて仕事をする彼にとっては贅沢なほどにやりがいが感じられるのだった。
 はりきって仕事をする英昭に先輩が語り掛ける。
「英昭君、そんなに頑張らんでもええで、ぼちぼちでええから」
「はい、有り難う御座います」
 職場でありがちなこんなやり取りも、何故か英昭には少し鬱陶しく思えるのだった。

 学校帰りから夜遅くまでアルバイトをしていた英昭は、家に帰ると直ぐ様横になって眠りに就く。流石に疲れたのか夕食も口にする気にはなれなかったのだった。
 でもバイト先でおやつ程度の少々の食事をしていた彼は、その食が細い質からも食べない事を苦にはしなかった。
 そして疲れているとはいえ神経質な彼は毎晩といって良いほど夢を見るのだった。その夢の内容も実に摩訶不思議な、自分でも説明のつかないようなまるで異世界を思わせるものが多かったのだが、どちらかといえば悪夢が多かったように思われる。
 そこに現れる人物も多種多彩で、自分かどうかさえ分からない自分のような者と、会った事があるようでないような人々。そんな架空の人物達に依って形成された夢も或る意味では現実逃避という有難い効力を発揮し、たとえ悪夢であろうとも無我の境地へと誘ってくれる。
 でも今宵見た夢は決して悪夢などではなかったのだった。
 見渡す限り一面に広がる静寂な野原。昼か夜なのかも判らない風景の中で要所要所に明滅する僅かな光。怪しくも艶やかに、そして慎ましく輝くその光は、遙か彼方に屹立する樹々をクリスマスツリーのように美しく彩りながらまるで夢のゴール地点でもあるかのようにひっそりと佇んでいる。
 目的意識などは皆無であった英昭も何故か無性にその光の源が何であるかを確かめたい気持ちになり、その樹のある方向へと進み行く。
 でもどれだけ歩いても走っても、何時まで経ってもその樹には辿り着けない。それどころか逆に離れて行くような錯覚を覚える。だが光だけはしっかりと見えている。
 やはり悪夢なのか。これ以上は進むなという警告なのか。諦めかけていた所に謎の女性が現れるのだった。
 地面に咲く草花と愉快に戯れるその女性は実に容姿端麗で、舞う蝶や植物でさえも照れるようにその羽や花びらをパタパタとはためかせている。
 この夢の登場人物である彼女もまた、無意識に夢の世界へと誘われた現実社会に住まう者なのだろうか。そんな幻惑に好んで没入しようと試みる英昭は、恣意的にもその女性と縁があると決めつけ駆け寄ろうとする。
 また遠ざかってしまうのではないかと危惧する彼は、自分の存在を予め知らせようとして大声を上げるのだった。
「スミレー! 今行くから待っとってよー!」
 何故スミレという名を叫んだのかは至って単純明快な理屈だった。草花と戯れる姿から花子という余りにも単純過ぎる、短絡的な発想も浮かんだのだが、やはりそれでは味気ない。そこでラベンダーのような青紫色が好きだった彼はラベンダーではおかしいという事で同じような色をしているスミレにしたのだった。
 彼の声に気付いたのか、意外にも手を振ってくれる彼女。安心する英昭は微笑を湛えながら落ち着いた様子で近付いて行く。そして彼女の前に立つと意を決して声を掛ける。
「ありがとう、待ってくれてんな、また消えるんちゃうかと心配やったけど、助かったわ」
 彼女も優しく微笑みながら答えてくれる。
「消えるとか、そんな魔法は使われへんし、それにスミレという綺麗な名前付けてくれて私こそありがとう」
 英昭は不甲斐なくも無我夢中になり、名前を付けてくれたという彼女のおかしな言動を顧みる事もなく、その名付けの意図を説明しながら明るく談笑していた。
 彼女からは甘美な香りが漂い、それに酔いしれるように蝶も周りを舞い続けている。
「この蝶々可愛いでしょ? この子にも名前付けてやってよ」
 英昭は迷っていた。植物には多少興味があった彼も動物や虫の事には殆ど関心がなく、その無知ぶりは自分でも情けなく思える。
 一向にアイデアは浮かばない。このままでは彼女に嫌われてしまうと危機感を覚えた英昭は、思いもしない名前を強引に捻り出し彼女に告げるのだった。
「シロはどう?」
 少し怪訝そうな表情で答える彼女。
「何でシロなの?」
「白いからかな、どうせ紋白蝶やろ、そやからシロでええんちゃう?」
 彼女の顔が若干引き攣ったように見えた。そこまで動じる事もないだろうと思う英昭は、軽率ながらも宥めるように言葉を続ける。
「そんな怒らんでもええやん、ほら笑ってよ、君には笑顔が似合うねんから、その笑顔は素敵やでな」
 彼女は決して怒っている訳ではなかった。ただその引き攣った顔が淋しい表情へと変化して行く様は英昭の心をも寂寥感に包んで行く。
 何が気に障ったのかはまるで理解出来ない。そのセンスの無さに呆れたのか。嫌いな名前だったのか。或いは自分が考えていた名前と一致しなかったのか。
「ちょっとシンプル過ぎるわね、でも私の名前は頂いておくわ、ほんとにありがとう、これから用事があるから、じゃあまたね」 
 そう言って彼女は呆気なく姿を消し去ってしまった。やはり魔法が使えるのではないかと悲嘆に暮れる英昭。
 凄まじいまでの悔恨に揺られる彼の心は一時的にその意思に合し、是が非でも彼女を自分のものにしたいという支配欲に取り憑かれる。現実社会では彼がまず見せないであろうこのような心境の変化は、夢という幻の世界が齎してしまう代償とも言うべき瑕疵なのだろうか。
 無論その瑕疵は他ならぬ英昭自身から生まれた不慮の事態を表すものであり、招かざる災いでもあった。
 ただ浅い眠りの中にもしっかりとした意識を以て臨んでいた彼の心には、夢の世界にも発揮する事が出来た感覚を実感していたのだった。
 要約すると幻の世界で意識を働かせる事が出来たという話で、それは無我に帰したのではなく、寧ろ自我に執着しながらも末那識を感じ取る事が出来た成果を示すものではなかろうか。
 それをすら錯覚と説く仏教の教義ではあろうとも、世の無常を訴える教えに一貫性が保たれているとすれば、自ずと相反作用を引き起こしているような気もしないではない。
 夢想の中で感じ得た英昭の想いは夢が覚めても翻る事はなく、そのままの形で現実社会に強く引きずり出されていた。
 幻想的にも寒気がするようなメルヘンチックな夢の世界から目覚めた彼は、それまで余り関心がなかった異性に惹かれるようになっていた自分に戦慄していた。彼をそうさせた理由は多感な思春期の自然の性も然る事ながら、初めて見た吉夢に依る所が大きかった。
 偶然性のある夢の世界で必然的に感じ取ったその感覚は、僅かながらも彼の為人に影響を及ぼし、思考のベクトルというものを変化させて行く。簡単に言えばイメージチェンジを図ろうとしただけなのだが、ここでまた彼の狷介な性格が邪魔をするのだった。
 
 或る日曜日、英昭の一家は近所の親しい連中と一緒にハイキングに出掛けていた。アルバイトに励んでいた英昭は参加しなかった。
 母に次男の幸正、妹の彩佳、そして近所の友人が数人。ハイキングといっても神戸にはそこまで高い山もなく初心者でも登る事は難しくはない。本来なら六甲山に登りたい所ではあったが、時間が掛かる事を懸念する一行は高取山という半日で登山が出来る山へと向かうのだった。
 地元の者なら誰でも知っているその山の頂は薄っすらと白く映え、雲を帽子にして悠然と構えている。少し急勾配な階段を上って行くと鳥居に囲まれた小さな社の中に狐の像があり、登山客の心を和ましてくれる。
 そこから更に進んだ山の三合目辺りに公園のような広場があり、一休みする者が多かった。
 腰を下ろした一行は先程見た狐の像について語り合っていた。
「あの狐なんか怖い感じがするな、そう思うわへん?」
 こう切り出した英昭の母に対し、近所の友人の女性が言い返す。
「何言うとんのよ、あんな像ぐらいでビビっとったら何も出来ひんで、意志をしっかり持ってたら狐なんかに化かされる事ないわよ、な~みんな?」
 確かにその通りなのだが、そこまで真剣になる事もないのではと内心笑う母であった。
 でもその笑いが微かな危惧を帯びていたのも事実で、気が強い反面弱さを露見してしまう母の馬鹿正直な性格は、団体行動をしている時は尚更際立って見える。
 それを誰よりも知る英昭の妹の彩佳は母にこう告げるのだった。
「お母さん、何を心配しとん? ひょっとしてお兄ちゃんの事ちゃうん? ちゃんとバイトしとんかどうか気になるんやろ?」
 彩花の優しい口調は母を安心させた。図星だった。息子の行く末を慮る母の気持ちは本人は元より家族の心に深く沁み入って行く。そして飛散する事なく重厚な思いとしてその胸底深くに沈殿してしまう。
 長男である英昭に対する母の想いは殊更強かった。だがそれと知っておきながらも弟の幸正だけは素知らぬ顔でまだ見ぬ頂上を仰ぎ、登り切る事だけを考えていた。
 そんな幸正の様子を窺う母も真意は解らずとも、幸正の想いを汲み取る努力に励んでいたのだった。
 休憩を終えた一行は腰を上げ、頂上に向けて出発する。
「さあ、頑張って行くで~」 
 母は祈っていた。英昭がたとえ夢であろうとも狐などに化かされるような人生を歩まないようにと。そう思いながら一歩づつ踏み出す母の足取りは力強かった。


























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