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幻の憧憬  #3


#創作大賞2022



 朝目が覚めると雀が可愛い鳴き声を響かせていた。晩のうちに少し雨が降っていたのか、ベダンダに出ると地面が黒く濡れているのが見える。ひんやりとした感触を求めて敢えて手摺に手を触れる英昭。
 天高く聳える巻雲はその繊維状の姿を空一面に拡散させ、絹のように柔らかく優雅に舞い続ける様は、世の趨勢を見極める慧眼を以て神秘的なパノラマを映し出す。
 艶めかしく美しい稜線を描く彼方に佇む山々は、雲間から差し込む陽射しを浴びながら壮大な姿で威風堂々と地上を見守っている。
 目を慣れさせる為か、朝起きるとこのようにして毎日ベランダから外の景色を眺める習慣があった英昭は、不遜にも下界の様子を確かめるような眼差しで地上を見下ろしたあと、その空気を目一杯吸い込んでから部屋に戻るのであった。
 春休みを終えた彼は朝食を済ませ、余り気が進まないまでも登校し始める。気が進まない理由の一つにこれから会う事になる同級生と共に登校する事になったという鬱陶しさがあった。
 それはまだ慣れない高校生活に於いて、入学当初だけでも中学の同級生同士で登下校させようとする親達のお節介な優しさが影響していた訳だが、親達の仲はいざ知らず子供達には是非はともかく、何処か理屈抜きにぎこちなさが漂っていたのは確かだろう。
 男三人、女一人のそのグループの様子は一見すれば何処にでも居るような高校生達の一団に映るだろう。でも無言の裡に伝わる軋轢にも及ばない些細な空気感は他者は無論、英昭のような繊細な者の気質を以てすれば少なくとも澄んではいないように思われる。
 とはいえ仲が悪い訳でもなかった彼等は親達の意向に素直に従い、共に登下校する日々を送っていたのだった。
「おはよう」 
「おう、おはよう」
 軽く挨拶をして近所の待ち合わせ場所から出発する彼等は、道中に立ち並ぶ見事に咲き誇った桜を仰ぎ見ながら足を進める。
 確かに綺麗ではある。梅や桃と同じく薄紅色に染まる無数の花には人を魅了する上品で優美な風采が感じられる。正に春を代表するに相応しい木花だろう。
 ただ違った角度から考えると手放しでは喜べない英昭だった。余りに見事過ぎて、美し過ぎて、却って醜く見えてしまう。いや、そう成ってしまう事を怖れるが故の脆弱な心が表す危惧の念か。
 それと並行してただ春の到来に酔いしれ、浮かれ気分で花見に興じる人々の呑気な様子も余り好きにはなれず、堂々とし過ぎている為か深く考え過ぎているだけか、梅のように謙虚で哀愁の様が感じられない事も物足りなく思う英昭だった。
 学校に到着した一行は靴を上履きに履き替えるタイミングで別れ、各々の教室へと向かう。四人のうち同じクラスであった武史という男も何の因果か和義と同じく保育所からの付き合いで、英昭とは正反対といって良いほどの積極果敢、明朗闊達な為人であった。
 他意はなくともこんな二人が仲良く出来るのだろうか。英昭としても内心彼が和義であってくれたならと思っていた可能性はあるだろう。それは武史とて同じ事で不可避性のある社会構造と踏まえた上でも、人の縁とは摩訶不思議なものに感じられる。
 二人は教室に入り自分の席に鞄を置き、同級生達と談笑し始める。孤独が好きな割に一匹狼を決め込むまでの力や勇気を持ち合わせていなかった英昭も致し方なくその輪に入って行く。
 ここでも何か釈然としない彼は、武史の様子をそれとなく観察していた。相手の同級生達はあくまでも高校に入って初めて知り合ったに相違ない。それなのに入学してまだ日が経たない現状に於いて、恰も昔馴染みでもあるかのように親し気に話す武史の擦れた様子は訝らずにはいられない。
 中には既に知り得た者もいるだろう。でもここまで軽快に語らう事など出来ようか。
 それこそ武史の先天的な性格が担う事が出来る恵まれた業なのか。それを知っていながら今更愕く英昭ではあったが、武史の性格を妬み、自分を悲観視するまでには至らなかった。
 少々人嫌いな気がありながらも話ぐらいは普通にする事が出来、好き嫌いが烈しい訳でもない。それなのに無性に込み上げて来る悍ましいまでの嫌悪感や違和感。それが何を物語っているのかは現時点では解らない。ただ自分にも非があるとはいいながらも、そんな風に高校生活を始めなければならない事には些か重苦しいものを感じる英昭であった。
 寝坊でもしたのか、HRが始まる直前に急いで教室に駆け込んで来る者がいた。見るからにヤンキー風な漂いがあった澤田という男子生徒は自分の席に坐っていた者に気付くなり、いきなり拳を振り上げるのだった。
「何しとんどいわれダボよ、どいたらんかいやゴラ!」
 その言葉に驚愕する同級生達は話を止めて、息を飲むようにしてその方向に顔を向ける。
 殴られた山中という男は何が起きたのか全く理解出来ない様子で、亦自分が殴られたにも関わらず反撃しようともせずに、
「何で? 何で僕が殴られんとあかんの!? どういう事なん!?」
 という言葉を発しながら席を立ち、勇敢に向かって行くのだった。
 周りで見守る一同にはその行動の方がよっぽど恐ろしく思えた。何故殴り返さないのか、何故僕などという表現をするのか。
 そんな態度に愕いていたのは当事者である澤田も同じだった。だが少し背が低い彼は自分よりも背が高い山中に対し、僅かながらも後退りしているように見える。でも退く訳にはいかない彼の健気な男気は更なる一撃を繰り出すべく、全身から鋭く勇ましい閃光を放つ。
 幸か不幸かその刹那鳴り響くチャイムに依って勝負は虚しく終演を迎える。不穏な空気に気付いていたのかは定かではなくとも、教壇に立った担任の先生の表情は多少なりとも翳を帯びていた。
 生真面目なその先生は愛想笑いとも言い難い、理解し難い、形容し難い笑みを零して口を切り出す。
「おはよう、今日もええ天気やな、一日一日を大切に、元気に、無事に過ごしましょう」
 取って付けたような台詞を発する先生の意図は解らずとも、その他意のない、裏表のない表情からは何か神聖な気配が漂っていた。それを無意識に感じ取った生徒達も後に続く先生の口上を静かに訊き、何事もなかったように平静を装うのだった。
 一通りの事を言い終えた先生は粛々と教室を後にする。バトンタッチでもしたかのように直ぐ様入って来た数学教師の優しくも威厳のある、少し厳つい風貌に動じる一同は、喧嘩沙汰を振り返る事も叶わないままに授業に臨むのであった。

 昼食を済ませた同級生達は五時間目に控える体育の授業に合わせて服を着替え、昼休みの間に颯爽とグランドに躍り出て行くのだった。
 大きな学校の敷地にある教室は島のように点々と間配られており、特にグランドまでの距離は離れていた。その影響で昼休みであってもグランドに出て遊戯をするといった生徒は少なかった。
 授業が始まり体操などをして身体を解す生徒達。教師は如何にも体育の先生と言わんばかりの運動神経が発達してそうな精悍な形(なり)で大声を張り上げて皆を先導していたが、先程の数学教師からすればその風格も大した事はなかった。
 ハンドボールに勤しむ生徒達の表情は明るかった。ボールを手にしてからゴールに向けて烈しく突き進む澤田は、まだ根に持っていたのか山中に故意にぶつかって行くのだった。
 それを甘んじて受け止める山中。彼にも蟠りが残っていたのだろうか。その上でも見事ゴールを決めた澤田の姿は光り輝いていた。傍で見ていた生徒達は言うに及ばず、先生までもが拍手を贈っている。
 そんな光景をぼんやりと眺めていた英昭は僅かに芽生えた憧れを澤田に感じるのだった。でもその憧れは忽ちにして虚しい失望へと変化して行く。
 ゴールを決めたあと、澤田と山中の二人は強く握手をしていたのだった。それは喧嘩の終局を表すものなのか、これで全てを水に流そうとでも言うのか。
 スポーツマンシップをとるという観点からはそれもありえるだろう。しかし喧嘩ともなれば別問題で、それだけで真に気が晴れたとは到底思えない。自分なら握手などは絶体にしないだろう。
 浅はかながらもまだ神経質な英昭はそう思わずにはいられなかった。きっちりとケジメをつけなくて何がヤンキーだ。何がアウトローだ、男気だ。
 断片的で飛躍した主観ながらも時代背景に依って左右される人の感情とは脆いもので、時としてはその意に反する、錯覚にも似た衝動に駆られる事はあるとも思える。
 後先考えずに言葉を告げる英昭の表情は硬かった。
「澤田君、何であんな奴と握手なんかしたん? 仲直りでもしたつもりなんか?」
 澤田は笑いながら答えた。
「ふっ、お前の気持ちは有難いで、でもそこまでしてシバく必要がある奴でもないやろ? あんな奴誰かがシバいてくれるわ、放っといたらええねん」
 その言にも一理はあった。でも釈然としない英昭の心情は憧れの中で感じ得た失望を葬る事は出来なかった。
 もしかすると澤田は逃げ道を模索していたのではあるまいか。そんな相手ならばそれこそ一瞬にして打ちのめす事が出来ただろう。それなのに何故彼はそんな大人の態度を取ったのか。
 一々深く掘り下げて考察する英昭も相変わらずだった。ただそれを他の生徒達に感付かれる事なく二人だけで話が出来た事だけは幸いだった。
 もし誰かが見ていたなら自分が変な目で見られる可能性はあった。そんな事を憂慮する小心な彼に澤田のとった行動を責める資格など無かった。寧ろ澤田に手を上げられなかっただけでも安堵するべきではなかろうか。
 無理矢理にでも心を整理する英昭はグランドに舞う砂塵に、己が心情を重ね合わせて願うのだった。
 いっそ大災害にでも見舞われてこの地面が屈強な、何の情緒も感じさせないアスファルトに変わって行く事を。

 また四人で下校する事に愛想を尽かす英昭ながらも、一応はそのシステムに従い、静寂の体で帰途に就く。
 家に帰った彼は無性に和義に会いたくなり、直ぐ様彼の家を訪ねる。呼び鈴代わり使っていた、近くに置いてあった見知らぬ人の自転車の鐘を何度鳴らしても和義は一向に出て来ない。
 訝る英昭は少し語気を強めて声を上げる。
「和義くーん!」
 すると親御さんが目には目をといった感じで叫び返して来る。
「じゃがましわい! おらへんの分からんかゴラ!」
 諦めた英昭は返事をしないままにその場を立ち去る。それにしても親御さんはそこまで怒る必要があるのか、機嫌でも悪いのか。
 そんな風に思いながら大人しく帰って行く。
 一瞬で家にとんぼ返りした彼はその無関心な性格が災いし、部屋で孤独と戯れるのだった。

 和義は性懲りもなくパチンコに興じていたのだった。あれだけ酷い目に遭ったのにも関わらずまだ物足りないのだろうか。何が彼を動かすのか。ただ儲けたいだけなのか。それとも憂さを晴らしたいだけか。
 当時は中学、高校時分でパチンコをする者などそれこそヤンキーぐらいなものだった。英昭も和義も決してヤンキーなどではなく、ヘタレ同然の人物であった。でも下町の雰囲気にはそれを優しく見守る副作用を投げ掛けていた感があった。
 その最たるは幼い頃からの風習と、街全体が庭であるかのような顔見知りや知り合いが多い事に由来する、有難いデメリットから来る下町ならではの、個人的には看過出来ない社会構造に依る所が大きいとも思われる。
 そんな屁理屈を和義のような間の抜けた男が考えているとは到底思えない。だからこそ気の向くままにパチンコなどに興じていたのだろう。
 だが彼もただの馬鹿でもなかったらしく、以前とは違った店に姿を現していたのだった。
 その店は結構古くからある老舗のパチンコ店で、余り若者は居なく、どちらかと言えば年配の客達で賑わっていたのだった。
 だからといって油断は大敵である。何時如何なる時に怪しい影が現れるとも限らない。それを憂慮する彼は柄にもなく中学の同級生の親御さんにくっついて遊戯を楽しんでいたのだった。
 そのお親御さんというのがこれまたパチンコ依存症で、仕事をさぼってまでギャンブルにのめり込む、怠惰に身を委ねる人物であった。
 でもそんな人物に寄り添うようにして遊戯する和義にも一応の策はあったのだった。それは稚拙ながらも狡猾な、他者の功績に縋るといった、虎の威を借る狐の様相を呈していた。
 その親御さんの息子というのが地元では屈指の腕っぷしの強い人物で、中学の同級生とはいえ和義如きが近寄る事は憚られるほどの名の売れた兄弟であった。
 それが皮肉にも親と自分の悪習を通して知り合ってしまったのである。意図していた事とはいえ普通なら省みらざるを得ないこのような奇縁にも、何ら躊躇する事なく甘んじて身を窶す和義。その根柢にある真意は測りかねようとも、友人なら少なからず諫めようとするのが情けで、自然体であるようにも思える。
 後ろを一切振り返らない和義の気ままな性格にも或る意味では尊敬に値するものが感じられる。彼の素っ頓狂な顔立ちを見れば尚更である。
 そんな和義は珍しくも大勝ちを収めて帰って来るのだった。険しい面持ちながらも一緒になって喜ぶ親御さんだった。
 何も知らない英昭は夕食を済ませたあと、暇に耐え切れず、早々と眠りに就いていたのだった。










 







 
 



 
 



 


 
 






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