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「主イエスの愛の心で」‐『フィリピの信徒への手紙』の学び

「主イエスの愛の心で」‐『フィリピの信徒への手紙』の学び

2006年1月、7月改訂

1.パウロとフィリピの信徒たち

1-1. 出会い:「宣教の初め」(4.15)

いわゆる「第二回伝道旅行」(紀元49年頃〜52年頃)で、パウロは予定外にマケドニアに渡ることとなりました(『使徒言行録』15章36節以下)。
「伝道旅行」と通常言われていますが、実態は「旅行」というより、行き先が定まらず彷徨に近いものではなかったかと思います。アンティオケア教会でペトロを叱責し、盟友バルナバとも福音の本質を巡り見解の相違を生じたため、彼は母教会を離れることにしました。彼と志を共にするシラス(ラテン名はSilvanus〔シルワノ〕)など少数の同士を伴って、文字通り行く宛ても定まらず、ただ主に委ねて彷徨い、訪ねた町々で主の福音を伝えたようです。
それは迫害と嘲りに満ちた困難な旅でした。
しかし、それは福音の本質を巡る闘争でもありました。
まさにそのただ中から福音の奥義が〈言葉〉として析出されたのです。
それは数々の手紙となって残され、それらはパウロの畢生の遺作でもある『ローマ書』に結実したのでした。

1-2. フィリピ(フィリッポイ)

アジア州のミシア地方からマルマラ海沿岸のビティニア地方への伝道を目指していたパウロは、「イエスの霊がそれを許さなかった」ため、トロアスに逗留しました。そこで夢のお告げを受け、当初予定していなかったマケドニア州に向かうこととなりました。
トロアスから船に乗ってマケドニア州に向かったパウロは、港町ネアポリスに到着後、そこから北西20km、徒歩でほぼ1日の距離にあるフィリピに到着しました。

こここはローマとアジアを結ぶ交通の要衝で、当時はマケドニア州都アンフィポリスより繁栄していました。
フィリピは、BC.358年マケドニア王フィリッポスⅡ世(アレクサンドル大王の父)が占領し命名しました。ちなみにフィリポとは「馬を愛する」という意味です。
BC.168年にローマ軍が占領して以来、ローマの支配下にありました。
BC.31年オクタヴィアヌスが退役軍人の植民都市とし、守備隊が駐留する皇帝の直轄地となり、総督府役所(praetorium=親衛隊の兵営フィリピ1.13)がおかれました。

人口構成はローマ人とマケドニア人がほぼ半数で殆どを占めておりましたが、少数のユダヤ人など他民族も住んでいたようです。
市民の大部分はローマ市民権を有し直轄地として庇護されていました。もちろん奴隷や異邦人は、例外を除いて市民権は与えられていませんでした。フィリピ書の4章22節にある「皇帝の家の人たち」というのは、皇帝所属の奴隷たちや解放奴隷を言い、彼らは結社を作りエフェソやフィリピにもいました。

当時フィリピにいたユダヤ人たちはまだ会堂を持っておらず、町の西方2kmにあったガンギテス川のほとりの「祈りの場」に集っていたようです。
パウロはそこで紫布を商うティアティラ出身のリディアと出会いました。リディアはパウロたちを自宅に招きました。そこを拠点にエクレシアは誕生したようです。

『使徒言行録』によると、この町でパウロとシラスは占いをする女奴隷を正気にさせて、彼女で儲けていた者たちに損害を与えたため、扇動の咎で逮捕されました。奴隷のように扱われ、裸にされ鞭打たれ上、足かせをされて投獄されたようです。
しかし獄中で静かに讃美歌を歌う中、地震に遭い、九死に一生をえましたが、パウロたちは逃亡せず看守を驚かせ、福音に導きました。
彼の上司は彼らがローマ市民権を持っていることを知り謝罪し、釈放すると共に町を出るよう要請しました。
パウロはフィリピを後にし、次の町へと向かっていきました。

パウロ自身、フィリピを離れて数ヶ月後にコリントで書いた『テサロニケの信徒への手紙一』の2章2節で、「わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められた」と述懐していますが、おそらくこれら一連のことを指しているのだと思われます。

しかし、パウロはその後もフィリピに生まれた小さなエクレシアと深い関わりと持ち続け、彼らもパウロ一行を援助し続けました。
パウロの真性の書簡のあちこちにそれを伺うことができます。
例えば、テモテをマケドニア経由でコリントへ派遣するときには、おそらくフィリピに立ち寄ったことでしょう(Ⅰコリ4.17, 16.10、フィリピ2.19 )。またパウロ自らも立ち寄ったことが予想されます。

『使徒言行録』20章5、6節によれば、ルカもフィリピに滞在していたことが伺えます(フィリピ出身という説もあります)。

フィリピに誕生したエクレシアにはどんな人が集っていたのでしょうか。
代表的な信徒として『使徒言行録』16章の記事からは、「紫布を商う人」リディアと彼女の家族、看守とその家族が上げられますが、40節の記事からはリディアの家に集う「兄弟たち」の存在が伺えます。
一方パウロ自らが書いた『フィリピ書』にはエパフロディト( 「魅力ある」の意味)、エポディア(ユーオーディア=良い香、「香さん」)、シンティケ(シュントゥケ=幸運、「幸さん」)、クレメンス(Clemensラテン語で「慈悲深い」、1世紀 末のローマ司教(第4代教皇)クレメンスとは別人)という個人名の他に、「真実の協力者」(シュズゴス ギュネーシオス=「真の相棒」)と呼ばれる人物がいました。

 パウロ以後にフィリピのエクレシアがどうなったかについてですが、紀元2世紀前半にスミルナの司教ポリュカルポスは「ピリピ人への手紙」を残しています。

「パウロはあなた達の地に来て、当時の人々に直接会い、真理を正確にかつ深く教えたのですが、その地を去ったあと、あなた達にいくつかの書簡を書き送ったのでした。これらの書簡をよく読めば、あなた達はあなた達に与えられた信仰に関して(しっかり)建てられることができるでしょう。」

(3.2、『使徒教父文書』講談社文芸文庫216ページ)

パウロが亡くなった後も、この手紙にあるように先生の書簡を大切に保管し、その教えを繰り返し学んだことが伺えます。
以後5世紀ころまでエクレシアは存在しましたが、大地震により町が崩壊したため消息を絶ったようです。その後、イスラムの侵略などもありましたが、この地方一帯は現在もキリスト教が民衆に定着しています。

1-3フィリピのエクレシアの特徴

フィリピのエクレシアも、パウロが築いた他の教会同様に色々問題を抱えていたようです。
しかし、極めてパウロに忠実で、たえず親身に先生一行を援助し続けたことが伺えます。

さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。……それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。(4.10-18)

ここにある「もののやり取り」は原語で「ロゴス」で、収支のやり繰りや貸借勘定を指します。
パウロ一行の伝道方針は、教団本部に頼らず自分たちで労働などをして資金を稼ぎ、自活による独立伝道でした。しかし、フィリピの信徒たちは伝道活動経費負担に進んで協力したことがここに特筆されています。

いわゆる「第三回伝道旅行」で足かけ三年余り逗留し、「獣と戦った」(Ⅰコリ15.36)とパウロ自ら言わしめたエフェソでの伝道活動でも、フィリピ教会は物心両面で援助し続けました。
もちろん、他の教会も援助し続けたでしょうが、フィリピ教会はどこよりもパウロにとって深い慰めであり励ましだったことがこの文面から伺えます。


2.フィリピの信徒への手紙

エフェソで投獄され困窮していたパウロを心配して、フィリピの信徒たちは金品などの援助物資とともにエパフロディトを派遣しました。しかし彼はエフェソで重病を患い、フィリピに帰ることになりました。
またフィリピのエクレシア内にも様々な問題が発生していました。
パウロは援助に対するお礼とエパフロディトへの配慮、それに教会内の問題についての勧めを認めました。
それが今日私たちが手にする『フィリピの信徒への手紙』です。

この手紙が最近の研究によりは少なくとも3通が寄せ集められたものと分析されています。

手紙A(1章1節‐3章1節)

謝意と祈り

パウロの現状と勧めの言葉

エパフロディトを帰すにあたっての配慮

手紙B(3章2節‐4章1節)

「割礼主義者」に対する警告

「テレイオス(完全な者)たち」への警告

手紙C(4章2‐21節)

勧告、主にある一致と「広い心」

エパフロディトの派遣と援助への謝意

書かれた順序などはいずれも不明ですが、内容、特にエパフロディトに関する記述から、「手紙C」は「手紙A」よりも前だと想像されます。
また「手紙B」はさらに後の、「ローマ書」と同時期にコリントで書かれたという説もありますが特定は難しいです。


3.エパフロディトの派遣と送還

フィリピの信徒たちは、エフェソ伝道で奮闘するパウロへの援助として、同僚のエパフロディトを派遣し、資金と物資を提供しました。

そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。(「手紙C」4.18)

しかし、「手紙A」2章25節以下によると、エフェソに勇んで来たエパフロディトは、想像以上の苦闘に直面したのでしょうか。疲労からか体調を崩し、「瀕死の重病」を患い、さらには精神的にも弱りホームシックに陥ったようです。そこで、パウロは彼をフィリピに帰すこととして、彼に「手紙A」を持参させるべく認めました。そこにはフィリピの信徒たちの期待に応えきれず憔悴するエパフロディトに対するパウロの深い配慮が見られます。

ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。(「手紙A」2.25-30)

「瀕死の重病」、「死ぬほどの目に遭った」とあるが具体的にどんな病かはわかりません。
慣れない土地でしかも獄中のパウロに仕えるのはかなり過酷だったでしょう。
責任感の強い彼はフィリピの人々の期待に応えるべく無理を重ねたかも知れません。
「瀕死の重病」は彼の心身が限界状況にあることを示していました。
またエパフロディトは病だけでも落ち込みホームシックになっていた上に、役目を十分果たせない負い目から挫折感に打ちのめされていたことでしょう。
そんな彼を気遣ってパウロは、フィリピの信徒たちに彼を温かく迎えるよう配慮しこの手紙を認めたようです。
ここにも「イエスの愛の心で」(1.8)パウロがエパフロディトはじめ、フィリピの信徒たちに対して接していたことがわかります。


4.手紙A(1章1節‐3章1節)

では、1章から順に読んでみます。
まず、「手紙A」と分類されている部分です。
ここには、
①テモテの派遣とエパフロディトの送還にあたっての愛の配慮が記されています。また、
②パウロの現状報告と共に、福音に生きる意義と勧めの言葉が、「喜び(喜ぶ)」をキーワードに語られます。

◆挨拶

1キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。2わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

「キリスト・イエスの僕」は、ローマ書の冒頭と同じです。
この自己紹介に彼の伝えようとする福音の本質が明確に言い表されています。
自分はキリストなるイエスの「奴隷」であるというのです。
これは後々説明しますが、福音の真理を巡り対立する者たちと明確に異なる自己理解です。

「テモテ」は、パウロの最も信頼する同労者ですが、丁度エパフラスがコロサイ教会の担当者であったように、フィリピ教会の担当者であったかもしれません。

「主イエスに結ばれている聖なる者たち」は、原文では「ハギオイス エン クリストー」で「キリストにある聖なる人々」という意味です。
「監督」は「エポスコポス」で「奉仕者」(ディアコノス)ですが、当時はまだ身分や職責が明確であったわけではなく、便宜的な役名だったと思われます。

◆フィリピの信徒のための祈り

3わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、4あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。5それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。

原文では、「喜んで感謝する、神(私の)に」となっています。冒頭は、「感謝し」に相当する「ユーカリストー」という言葉で始まっています。
何を感謝するのか、それはフィリピの信徒たちが「福音にあずかっている」からだと言うのです。
この「あずかる」は原語では「コイノーニア」という言葉が使われています。
この単語の原意は「交わり」を指し、単に「関わった」というだけでなく、福音に対する密な関係が表現されています。

6あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。7わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。

「イエス・キリストの日」宇宙万物救済の日でしょうか。
それは私たちが生きる今ではないかもしれません。
しかし、主の日はいつ到来するか私たちには分かりませんが、その日に向かって福音の種は日夜育まれているのです。

「確信しています」は、神による救いの貫徹への強い信頼をパウロが表明しています。
現実には後述しますように、フィリピの教会にも様々な問題が山積していました。
しかし、神が着手されたことは必ず完遂されるというのです。この不動の信頼はどこからくるのでしょうか。
「当然です」は原語で「ディカイオン」で、 「ディカイオス」、「正しい、公正な、ふさわしい」と同根の言葉です。

というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。

「監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも」は、パウロのエフェソでの現状を反映しているのでしょうか。
「共に恵みにあずかる」は原語で「シュンコイノーノス」で 「シュン:一緒に」と「コイノーノス:パートナー」の合成語です。
パウロの伝道に伴うあらゆる活動を、フィリピの教会は一心同体で担っているという意味でしょうか。

8わたしが、キリスト・イエスの愛の心(☆)で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。

「キリスト・イエスの愛の心で」は、「エン スプランクノイス イエスー クリストー」です。
この「愛の心」は、「フィレモンへの手紙」でご紹介した「スプランクノン」です。
新約聖書に11回使われている内、パウロが8回。
その内フィレモン書が3回、フィリピ書が2回使われていますが、その内の一つです。
原意は「はらわた」ですが、「深い愛が発露するところ」という意味で、通常の「心」とは意識して区別され用いられています。(『愛に訴えて─フィレモンへの手紙を手にとって』参照)

9わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、10本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、11イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

「知る力と見抜く力」は「愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」なるために用いられます。
自分たちは何事も認識している(分かっている)と自負しテレイオス(完全な者)を自認していた人たちを意識しているのかもしれません。「知る力と見抜く力」があっても「愛がなければ、無に等しい」(Ⅰコリ13.2)のです。また、「知る力と見抜く力」から次のニーバーの祈りの一節が連想されます。

変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ

(ニーバーの「セレニティーの祈り」)

しかし、それらの最終目的は、「神の栄光と誉れとをたたえる」ためのものだというのです。

◆わたしにとって、生きるとはキリストを生きること

12兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。13つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、14主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。

パウロの現状報告を通して、福音が証されています。
「監禁」の原語は複数形ですから「数々の投獄」を意味します。
当時の牢獄がどのようなものであったか分かりませんが、自由を奪われるだけでなく、今日の刑務所とことなり衣食住の環境も劣悪であったことでしょう。

「わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り」とありますが、それは罪者とは自ずとことなる雰囲気をパウロたちは醸し出していたためかもしれません。
ですから、不法や罪を犯したからでなく、福音の為に投獄されていることが周囲の者にも明らかに分かったのでしょう。
その事実が「兵営全体、その他のすべての人々」に強烈な印象を与えたようです。
それによってますます同労者たちを勇気づけたとパウロは証しています。

15キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。16一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、17他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。18だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。19というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。20そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。21わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

「他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせている」とは具体的にどのような人たちだったのでしょうか。
「自分の利益を求めて」キリストを宣べ伝えているというのです。
キリスト宣教により金品などの利益を得る人たちがいたのでしょうか。
確かに、今日でも宗教は「金になる」ことがありますから、当時も同様だったのでしょう。
しかし、パウロは「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」とまで述べています。

「だが、それがなんであろう」は原文で、「ティ ガル?」 で、英語で言えば、What then?(それがどうしたの?)というようなニュアンスです。
全く意に介していないのです。
「口実」(原意は「みせかけ」)であれ、何であれそれによって「キリストが告げ知らされている」ということを第一義としてパウロは受けとめています。
なぜならそれこそが、「わたしの救いになる」から。この言葉も意味深長です。

パウロにとっての「救い」とは、決して自分一人の救いではありませんでした。
彼に敵対する人をも含む全人類、そして非造物全体(全宇宙)の救いこそ、自分の救いの本質だと知っていたからです(ローマ8.19以下)。
だから、たとえパウロたちを陥れるためであろうと、彼らの不純な動機であっても、「キリストが告げ知らされている」ことを大胆によしとして受けとめているのです。むしろそれを「喜ぶ」(カイロー)とまで言い放っています。
この「カイロー」も大変重要なキーワードです。
パウロにとって「キリストが公然とあがめられる」が何よりも第一義的なことであったのでした。
「公然と」とは「この上ない大胆さで」という意味だそうです。
「キリストがこの上ない大胆さであがめられることを願う」とパウロは述べています。
そして、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と続けます。

22けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。23この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。24だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。25こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。26そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。

「キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは」原文では、「ト カウケーマ ヒュモーン(あなたがたの誇りは)〔増し加わる〕 エン クリストー(キリストにあって)」です。

この「カウケーマ(誇り)」は、パウロの人間理解、福音理解においてとても重要なキーワードの一つです。
人が生きるためには、「誇り」(プライド)が必要です。
プライドを懐けないとき人は卑屈になり、自らの尊厳を見失い、自己肯定感を懐けなくなります。
しかし、誤ったプライドは人を傲慢に陥れます。プライドがなければ人間として品位を保てません。
逆に、自分や家族、民族、国家などに過剰に誇りを懐くとき、人は傲慢となります。この傲慢が他者を裁き、時には抹殺をも正当化するのです。
今日も傲慢と傲慢のぶつかり合いによって様々な軋轢が起きているのではないでしょうか。

傲慢にならず、なおかつ人を人として保たせるために必要な「誇り」を懐くためにはどうしたらよいのか。
パウロは「キリストにあって誇る」のだと言います。
もっと端的に、自分を誇るのではなく「キリストを誇る」と述べています。
この事は大変重要な問題ですので、また触れたいと思います。

27ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、28どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。29つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。30あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。

「キリストの福音にふさわしい生活」として、パウロが指摘するのは「一致」です。
後述しますように、フィリピの教会内でも党派による対立があったようです。
エフェソの牢獄でパウロが苦心した問題の一つが、コリント教会における分裂騒動でした。
パウロはこれを「エリス」(分争、分派、争い)の罪として指摘し、それに対して愛(アガペー)に基づくオイコドメオー(造り上げる)ことこそ大切だと主張しました(コリント書参照)。
それは具体的に「心合わせて」「たじろぐことなく」一致したエクレシアとして現れます。

「反対者たち」とは、パウロが説くキリストの福音に対立する内外の人たちを指しましょう。
「脅されてたじろぐ」とは、救いと安心に対する確信を揺るがす事態、例えば迫害、嘲笑、無視、無理解などに対して、動揺する姿です。

キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられている」

この御言葉も大変重要です。《人生の苦難の意義》を言い表しています。
キリストの福音は、決してこの世での平安を安堵するものではありません。
むしろ、現実としてはパウロ自身、苦難の連続でした。
なぜキリストを信じ、委ねて歩む者が苦難に遭うのか。どうして、あんないい人が苦しまねばならないのか。
そして無惨に死んでしまうのか。
これが否定できない冷徹な現実です。
果たしてそこに意味があるのだろうか。因果応報、信賞必罰の論理では決して答えの得られない現実です。
「おごらざる人も久しからず」なのです。理不尽です。
この不条理を前にすると、「どうせ死んでしまうのだから、…」と快楽に身を任せるか、シニシズム(冷笑主義)に捕らわれてしまいます。

しかし、パウロはあえてこの不幸に満ちた現実を大胆に肯定するのです。
この苦しみは「キリストのため」だと。

それは、パウロにとって「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると取るに足りない」(ローマ8.18)という視点があったからでした。
これがなければ、確かにこの世の苦難は無惨さだけを残し、私たちを突き放します。
しかし、キリストの福音は「滅びへの隷属から解放」(ローマ8.21)なのです。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」(ローマ8.35)。

パウロはこのキリストによって給わる圧倒的な勝利を心底受けとめた人でした。
だから、理不尽とさえ思える人生の苦難をも、キリストのものとして黙々と受けとめ得たのでしょう。

彼のこの思想は、彼の跡を継ぐ人々にも受け継がれ、厳しい迫害と嘲りに時代を乗り越えていきました。
パウロの直弟子たちは更に深めて「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(コロサイ1.24)とまで述べています。そして、この彼らがローマ帝国を変えていったのでした。

この「強さ」は一体何でしょうか。

私は、ここにはいわゆる人間的な「強さ」、不安や恐れを払拭するために武器や暴力を使って獲得する強さとは質的に異なるものを感じます。
これを《「静謐(セレニティー)」の底力》とでも呼びましょうか。
それは主イエスの十字架への従順に由来します。
『イザヤ書』53章に描写される「屠り場に引かれる小羊」のイメージです。
まさに福音によって給わった、魂の奥底からの平安に生かされた在り方です。
パウロはこれを「広い心」(後述、「フィリピ」4.5参照)とも表現しています。
この「静謐」serenityから、次のニーバーの祈りの一節が連想されます。

(O God, give us)

Serenity to accept what cannot be changed

変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さ(セレニティー)を与えたまえ。

(ニーバーの祈り)

2 章

◆キリストを模範とせよ

1そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。

ここは原文では、四つの 「エイ」つまり英語のif(もし)が畳み掛けるように出てきます。
もし①「キリストによる励まし」があるなら、
もし②「愛の慰め」があるなら、
もし③「霊による交わり」があるなら、
もし④「慈しみや憐れみの心」があるなら……となっています。

「励まし」は「パラクレーシス」で、「慰め」、「奨励」です。

「慈しみや憐れみの心」の原語は「スプランクナ カイ オイクチルモイ」です。
ここにキーワードである「スプランクナ」が登場します。
「慈しみの心」と訳されていますが、単なる慈愛の精神ではなく、魂の奥底から全身を震わすような熱い思いとでも言いましょうか。

オイクチルモス(憐れみ)も福音のキーワードです。内村鑑三の言葉でそれが言い表されています。

美わしい優しい言である。父がその子を憐む、その矜恤(あわれみ)を表わす言である。父なる神のオイクチルモス──ああこれさえあれば他に何物も要らないのである。人の愛、人の同情、人の賛成、これはかえって信仰の妨害(さまたげ)である。しこうして人に嫌われ勝ちなりし余は世に最も幸福なる者の一人である。    (内村鑑三「回顧の涙」より1921年)

3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

3節の「利己心」と「虚栄心」が「へりくだり」「相手を自分より優れた者と考える」姿と4節の「自分のことだけ」 と「他人のことにも注意を払う」がそれぞれ対照に取り上げています。
21節「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」に通じるものですが、この「追い求める」は、「やっきになる、熱心に探し求める」)という意味です。

「利己心」は原語で「エリセイア)」で自分に熱心なこと、つまり《ジコチュウ》です。
「虚栄心」(ケノドクシア)で「ケノス(虚)」と「ドクサ(栄光)」の合成語で、〈空虚な栄光〉という意味です。

私たちも「バブルの虚栄」を経験しました。バブルがはじけ、日本経済の実態が白日の下に曝されました。
にもかかわらず、今日またその偽りが繰り返されています。
耐震構造疑惑は日本の建設業界や行政に対する信頼を揺さぶっています。その他、あらゆる分野に偽りが蔓延っています。政官財こぞっての欺瞞と不信、庶民の開き直りと逆ギレ、偽りに満ちた社会の繁栄は〈空っぽ〉にすぎません。

スコット・ペックは『平気でうそをつく人たち』で、次のようなことを述べています。

邪悪な人間というのは、他人をだましながら自己欺まんの層を積み重ねていく「虚偽の人々」のことである。…邪悪な人たちの中核的欠陥は、罪悪そのものにではなく、自分の罪悪を認めることを拒否することにある。

パウロはこの罪の実態を、「プシオーシス(高ぶり)」、さらには「ヒュブリス(傲慢)」と言い表しています。
まさにこれこそジコチュウの実態です。
しかし、人類は自分達の虚栄(それは得てして「大義名分」となりますが)のために、命を賭して際限なき闘争を繰り返しています。
このジコチュウと虚栄の克復こそ今日の人類にとって最大の課題です。

2001年9月11日に起きた同時多発テロで身内を亡くした遺族の一部が、愛する家族の死を、対アフガニスタンやイラクの戦争の口実にして欲しくないとの願いから、「ピースフル・トゥモロウズ」というNPOを立ち上げました。
そして活動記録を『われらの悲しみを平和への一歩に』として出版しました。
その巻頭に掲げられたのが次のオスカル・ロメロの詩です。

われわれが謙虚になり、

その謙虚さからのみ、

われわれが贖罪者となって、

世界が本当に必要としているような仕方で、

協力し合うことを学ぶことができるためには、

われわれはあまりにも多くの偶像を、

そして何よりもまず自己という偶像を、

打ち倒さなければならない。

(オスカル・ロメロ)

「なによりもまず自己という偶像を、打ち倒さなければならない」、報復の連鎖を断ち切り、平和を築くためには、それを阻止する最大の難所である「自己という偶像」、つまり「ジコチュウ」を克復せねばなりません。
この被害者家族たちによって示唆されるものは、深いです。
「非暴力による共存か、暴力による共滅か」と、今は亡きM・ルーサー・キング牧師は、私たち人類に問い続けているのです。
そして、主イエスの十字架と復活の福音こそ、《ジコチュウ》を打破する神による究極の処方箋なのです。

5節を訳してみます。
なぜならそれは(まさに)キリストにおいてもそうだったことをあなたがたの内で想起しなさい」。

2章6─11節は初代教会の信仰告白でありキリストの讃歌だったようです。
ジコチュウと虚栄を克復するキリストの福音とは何か、それはまさにイエスによって人類に示されました。

6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

「神の身分」は「モルフェー セウー」で、「神の本質」を意味します。
これに対して、「僕の身分」は、「モルフェーン ドューロー」で、「奴隷の本質」です。
これは、次7節にある「人間の姿」で使われている「スケーマティ(外観)」に対比される言葉です。

外観(スケーマ)に対して「モルフェー」は〈本質〉です。
たとえば、私たちの容姿は加齢と共に衰えていきますが、いくつになっても私は私です。
この場合容姿はスケーマで、「私」という本質はモルフェーを指します(武祐一郎『若者と学ぶフィリピ書』151ページ以下)。
また、最近よく「オンリー・ワン」と言われますが、その場合もモルフェーを指します。
しかし、私たちはしばしばスケーマで「オンリー・ワン」を表現しようとします。
容姿を立派に見せたり、才能や技量を磨きます。それも大切なことですが、私たちのモルフェーを忘れてはなりません。

モルフェーとスケーマは色々な示唆を与えられます。
私もそうですが、しばしばスケーマに目を奪われ、モルフェーを見ていないことがあります。
たとえば、耐震強度ねつ造事件で検査機関の審査に対する不信感が広がっています。
皆さんも経験があることでしょう。お役所に書類を提出するときにチェックを受けますね。
その際、一つでも書き漏れや書き間違いがあると厳しく指摘されます。
同じように建築確認書類の検査においても、厳しいチェックが実施されていることでしょう。
しかし実態は、スケーマ、つまり書類の外観のチェックが優先されているのではないか。
スケーマばかりに捕らわれ、その本質(モルフェー)をしっかりと見ないと偽造は見抜けないのではないでしょうか。

「十字架の死に至るまで従順」は原文では「死まで 従順、しかも十字架の死まで」と〈十字架の死〉が強調され説明されています。

◆共に喜ぶ

12だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。

「いつも(あなたがたが)従順であったように」「なおさら従順」と、前節の主イエスの「十字架の死に至るまで従順」がキーワードになります。
「従順」は「ヒュパコウオー」で「従う」という意味です。この動詞形が、「ヒュパコエー」で「聴き従う」という意味です。
反対語は「パラコエー」です。これは「聞き流す」という意味です。
従順でないことつまり「不従順」とは、「聞き流す」こと、ジコチュウの特徴を言い得ています(ローマ5.19参照)。

「恐れおののきつつ」は、「フォボス(恐れ)」と「トュロモス(おののき)」です。
これは人生の厳粛さを現しています。
人生は本来「聖なるもの」の前で繰り広げられています。
その「聖なるもの」への畏怖を失ったとき、人は「ジコチュウ」に陥ります。
自らが「聖なるもの」に替わってしまうのです。
「足から履き物を脱ぎなさい」(出エジ3.5)、私たちにはこの瞬間が必要なのです。

13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

原文「というのは、神です、あなたがたの中で働かれ、志を起こさせ、御心・善意のために仕事をするのは」です。私たちのモルフェー(本質)の救いは、神の聖業です。だからけっしてその業は途絶えない。救いの完遂の保証は、全知全能の神が始められたからというのです。

《だから》を補って次に続けます。

14何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。15そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、16命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。

「しっかり保つ」は「固く握る」という意味です。
「無駄」は「ケノス」で、これも大変重要なキーワードです。
パウロの伝道人生は、「無駄(ケノス)」だと嘲る内外の勢力〔声〕との闘いでした。
しかし、そうではない。
けっして無駄でなく、「キリストの日に誇ることができる」とパウロは希望を抱いていました(拙著「コリント書に学ぶ」38ページ他参照)。

17更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。18同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。

ここにもキーワードが出てきます。
それは「喜ぶ」です。
人々が言うように、パウロのやっていることが無駄にすぎず、
「たとえわたしの血が注がれるとしても」、決して無駄ではない、
むしろ、それをも「喜べ」とパウロは言います。
原文は「喜ぶ」と「一緒に喜ぶ」がリズミカルに繰り返されています。

カイロー カイ シュンカイロー パーシン ヒューミン

私は喜ぶ、そして 一緒に喜ぶ  すべて  あなたがた(と共に)

カイレテ    カイ  シュンカイレテ  モイ

あなたがたは喜ぶ そして 一緒に喜ぶ    私(と共に)

私たちは、新約聖書や連綿と続くキリスト教会によって、パウロが偉大な使徒であり、歴史的にも傑出した人物だったと当たり前のように認識しています。
しかしパウロと同時代に生きた人たちから見て、果たして彼は後代のような評価を受けていたでしょうか。
ローマ帝国から見れば、辺境のユダヤ教から生まれた一新興宗教の指導者に過ぎませんでした。
ローマ市民権を持っていたから、時折「人間として」丁重に接せられたこともありましたが、
使徒となってからの大半は、恐らく白い目で見られたことの方が多かったでしょう。

例えてみれば、今日の怪しげな新興宗教の指導者を思い浮かべればいいでしょう。
ユダヤ教徒から見れば彼は明らかに裏切り者で、一部の急進的な分子が彼の命を狙っていました。

では、クリスチャンの間ではどうであったでしょうか。
今でこそ「使徒パウロ」はペトロと並び称される偉大な使徒ですが、
当時のキリスト教会の主流から見れば、かつて自分たちを迫害したが今は共にいる寝返った人物であり、
しかも律法と割礼を重視せず、伝統的なユダヤ教の本義に反するような主張をする急進的な危険分子と写ったようです。

また彼の精力的な働きによって誕生した異邦人教会の中には、彼の主張をさらに先鋭化させ、高度な知識で装った者たちが、パウロの後進性を批判していたようです。

彼は、四面楚歌でした。

「彼の活動がほとんど完璧な失敗であり、彼が生きていた当時は、愛情の対象となるより、はるかに憎しみの対象となることの多かった……」とのE・トロクメの発言は、パウロの一面を的確に表現していると言えましょう。

しかし、彼はその現実をも「喜んで」いたのでした。

「自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができる」と彼は心底信じ、委ねていたのでした。これは、私たちにも赦された希望ではないでしょうか。

2章19─30節は、テモテの派遣とエパフロディトの送還についてです。この部分が本来の手紙の主要目的でしょう。


 3 章 ◆キリストを信じるとは

1では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。

「主において喜びなさい」は、 「カイレテ エン キュリオー」で、
直訳すれば「主にあってあなたがたは喜びなさい」です。
「安全なこと」は「アスファレース」で、「堅固な(sure)」とか、「保護(safeguard)」というような意味です。

この部分が「手紙A」の結語となりますが、ここでもキーワードの「喜べ」が繰り返されています。

5.手紙B(3章2節〜4章1節)

3章2節から4章1節までは、明らかに内容も語調もことなります。
ここでは、当時パウロが直面していたエクレシア内部の対立者たち、「割礼主義者」(カタトメース)と「完全な者」(テレイオス)と呼ばれている者たちとの、福音の神髄を巡る闘いと警鐘が語られています。
これは、当時パウロが誕生に関わった殆どの教会で直面していた問題で、中でも最大の教会であったコリント教会では分裂だけでなく、パウロとの離反すら起き始めていました。
おそらくこの闘いは、パウロのみならず彼の後を嗣いだ者たちも日々繰り返される切実な問題だったと思われます。

(5-1)「割礼主義者」に気をつけろ

まず、「割礼主義者(カタトメース)」と呼ばれる者たちの問題です。
カタトメースとは「切り刻み」を意味します。
新共同訳では「切り傷にすぎない割礼を持つ者」となっています。
彼らの主張は、今日で言えば、自爆テロやなどに象徴される原理主義者の問題に通底しています。
聖なる神、私たちの創造主であり、救済者でもある神の戒めは、絶対的で、あらゆるものに優先すると信じ行動する立場の人たちです。
彼らにとって割礼こそは、異邦人と区別する神から示されたしるしだったからです。
それはキリストの福音に与った一部のユダヤ人にとっても変わりありませんでした。
彼らはパウロの説く福音には割礼を軽視していると感じ、強く反発しました。
勿論、救いが広く異邦人にも及んでいることは認めていました。
しかし、彼らにとって救いとは、割礼を受けてユダヤ人になるという前提が必須だったのです。

この問題は、ご承知のように免罪符など教会の権威による救いの根拠を必要としたカソリック教会に対して、「否」とプロテストした宗教改革にも繋がります。
また、その後、プロテスタントでも、救いには「信仰」が必要とされ、その「信仰」の内容を巡って諸派対立し、血で血を洗う宗教戦争が起きました。
現在も、宗教や思想・信条の旗印の下で、闘争が繰り返されています。
いずれもカタトメースと同根の問題が潜んでいます。

2あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。

「注意しなさい」、「気をつけなさい」、「警戒しなさい」は、いずれも原語では同じ「ブレペテ」です。
「犬ども」は、「キュナス」、「キュオーン(犬)」の複数対格で、「犬たちを」です。
「よこしまな働き手」は原文では単純に「カクース エルガタス」(悪を行う人)です。

パウロはカタトメースらに激しく迫害されたようです。
そもそもパウロが母教会を離れ異邦の地へ押し出されたきっかけは、アンティオキア教会でのカタトメースを巡るペトロやバルナバとの対立でした。
その影響を色濃く残すガラテヤ書では、パウロは彼らに対して「アタテマ・エストー(呪われよ)」とまで言い放っています。ここでも「犬ども」と激しい口調で語っています。

3彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。4とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。

3節の原文は、「なぜなら、〔神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない〕 わたしたち(こそ)が割礼です」。
英語のtheと同じ用法です。
ここでのキーワードは☆「誇る(カウカオマイ)」です。
また続く4節にある「頼る(ペイトー)」も同じくキーワードとなります。
原意は「依り頼む」で、自分の存在の根拠を示すものとなります。
これはそのまま、「誇る」と言い換えても通じます。

人は「誇り(カウケーマ)」がないと人間らしく生きられません。
別な言葉で言い換えれば、誇りがないと品位を保てないないでしょう。
「誇り」は品位、つまり人間の尊厳を産みます。
これを英語ではtrue pride(真のプライド)と言います。

しかし、同じプライドでも品位を欠いたプライドがあります。
それがfalse pride、つまりうぬぼれ・傲慢で、これは「自分を誇る」ことになります。

カタトメースたちにとって、神から給わった祝福のしるしである割礼は、人間としての品位を保つため、つまり正しいプライドを持つために必須なのです。
割礼がないのは、人間としてのプライドを保てない、卑しい人間とみなしていました。
これは確かにそうで、プライドのない人は人間としての品位を保てません。
プライドは、別な言葉でいえば、最近の心理学用語の〈自己肯定感〉とも言えましょう。
自分を正しく肯定出来ないとき、人は落ち込むか、自暴自棄になります。
だから、人には自己肯定感、つまりプライドが必要です。

しかし、彼らカタトメースたちは、この割礼を「自分を誇る」しるしにすり替えているという罪の自覚がありませんでした。
それは、正しいプライドではなく、自惚れ、つまりfalse pride(悪いプライド)に陥る落とし穴だったのです。

これに対してパウロは、false pride(自惚れ)ではない、
正しいプライドの抱き方を、「イエス・キリストを誇る」と表現しています。
つまり、イエス・キリストに自己肯定感を抱くのです。

回心前のパウロは、神への忠誠という点でカタトメースらに負けないプライドを誇れる歩みをしていました。
しかし、復活の主に出会い、それが根本的に倒錯していたことを示されたのです。
信仰を得てからも、「タライポーロス・エゴー・アンソローポス(惨めだ、私、人間)」(ローマ書7.24)と歎かざるを得ない人間の弱さを知っていました。
そんな自分がプライドを抱けるとするなら、それはもはや自分ではなく、
主イエスを誇る、
主イエスの中で生かされた自分(主の霊によって生かされた自分)を誇るだけでした。
その否定できない現実を切実に味わうパウロにとって、誇りとは「イエス・キリストを誇る」以外ありえなかったのです。

私たちは何に依り頼み、何を誇っているのでしょうか。
「誇り高き日本」への回帰によって日本人としての「品格」を取り戻そうとする動きが目立つようになりました。
皇室典範改定問題が国会で議論されていますが、その根本には、「天皇を頂点とする神の国」という志向性が、私たち日本人には以前根深くあることを示しています。
それはまさに、スケーマの立派さ、美しさに頼る(誇る)思いではないでしょうか。
しかし、歴史は、「命のないものに望みをかける人々は惨めだ(旧約続編「知恵の書」13.10)」という先人の言葉を証明しているのではないでしょうか。
内村鑑三も次のように述べています。

真の神を正しく拝する事、これが諸の善事、また幸福の源であり、この点に誤りて我等はすべての事において誤らざるを得ないのである。

(内村鑑三『聖書之研究』308号)

私たちは、何を拝しているのか、この一点を今、するどく問われているのではないでしょうか。

3.5わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、6熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。7しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

「ユダヤ原理主義者」として面目躍如の青年サウロが描かれています。
そこには誰にも負けない「誇り」がありました。
しかし、それはまさに「古い人)の象徴だったのです。
それは、神の御前にはまったく「損失(損害)」にすぎなかったのです。
パウロはその根源的な倒錯を、身を以て味わったのでした。

キリストを誇る〈新しい人〉の出現が待望されているのです。

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリ5.17参照)

〈キリストの福音の奥義〉

3章8‐11節では、「新しい人」とは何か、つまり、福音の奥義が的確に言い表されています。和訳では幾つかの文章に分けられていますが、原文ではコンマで区切られた、一つの文章です。

8そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、〈そして〉9キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

8節の「キリストを知る」の「知る」は「グノーシス」で、単に知的に知るというだけでなく、ヘブライ語「ヤーダー」に遡る意味を有し、身をもって知る、体得するという意味も含まれます。
また、「失う」の原意は「没収される、手放す」です。
「塵あくた」は「スキュバロン」つまり糞尿、汚物、ゴミです。

8節の後半は、「キリストのゆえに、わたしは一切を没収されましたが、キリストを儲ける(獲得する)ために、それらを糞土のように思っています」となっており、「没収」と「儲ける」が対比されています。

次に9節の「キリストの内にいる者と認められるため」ですが、直訳すると「わたしは彼(キリスト)の内(中)に見つけられるために」、です。

そしてその〈わたし〉が以下①、②のような者だと畳み掛けるように説明されています。

①キリストのピスティスに基づく神の義を賜る〈わたし〉

まず、「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義」ですが、ここの「キリストへの信仰による義」は大変重要な部分です。ここの原文を見てみますと、次のようになります。

    通して   ピスティス を キリストの〔賜る義〕

新共同訳では、「ピスティス」を「信仰」と訳し、ここは、「キリストへの信仰を通して(よって)」と解釈されています。
しかし「ピスティス」には、「信実」「真実」という意味もあります。
それに、ここを直訳すると「キリストのピスティスを通して(よって)」となります。

また、「信仰に基づいて神から与えられる義」という部分は原文では次にようになっています。

 

    から 神の  義 基づいて  ピスティスに

ここも、「信仰」と訳された単語は「ピスティス」となっております。
ですから、以上を踏まえて直訳すますと次のようになります。

律法から得られる私の義ではなく、キリストのピスティスを通して、(キリストの)ピスティスに基づき神から〔得られる〕義を私は持つ。

前田護郎はこの直訳に忠実に、次のように訳しておられます。

律法から来るわが義を持たず、キリストのまことによる義、まことに応えて神から来る義をもつのです。

(前田護郎訳、中央公論社刊)

私たちが〈信じる〉から「得られる義」ではなく、主イエスのピスティス(信実・真実)によって「得られる義」つまり、主イエスのピスティスこそが、〈義〉の根拠だというのです。

だから、自分(の信仰)を誇らず、「主イエスを誇る」とパウロは言い切ったわけです。

その視点から訳せば、むしろ上記の直訳の方がふさわしいのではないでしょうか。

これは「キリストへの信仰」「信仰に基づく義」という伝統的な解釈に対して異なる解釈ですが、私自身の体験からも、この直訳を支持したいです。

今日の日本は、まさに存在の基盤である〈信(ピスティス)〉が崩壊しつつあります。耐震強度偽装事件、ライブドア問題に象徴されるように、「偽り」が後を絶ちません。それが社会を根底から蝕んでいます。

〈命の源〉なる主イエスのピスティスの再発見が急務なのです。

②キリストの苦しみと死に同じくされる〈私〉

10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、

「苦しみにあずかって」の「苦しみ」は複数形ですので、彼の数々の苦難、苦しみとなります。
「与る」は原語では「コイノーニア」、「あやかりながら」は「シュンモルフェー」つまり、モルフェー(本質)を同じくするという意味となります。
つまり、「彼(キリスト)の死と同じモルフェー(本質)にされて」となります。

私たちは主イエスの福音によって神から義を賜るという喜びに与れます。
しかし、それは決して、御利益宗教のようにこの世の幸福を約束するものではありません。
むしろ、主イエスの「死と同じモルフェー(本質)にされ」るというのです。
この地上では主イエスと同じく十字架を背負う歩みとなるというのです。これは厳しい言葉です。

しかし、これが人生の真実ではないでしょうか。
勧善懲悪ではない、「おごらざる人も久しからず」というのが現実なのです。
信仰を得て、むしろ不条理とも言える苦難に直面し、時には悲哀を味わわざるを得ないのです。

でも、それはキリストと本質を同じくされることなのだ、
それは決して「ジ・エンド」ではない、という逆説が次に述べられます。

③復活を切望する〈わたし〉

11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

ここを直訳すると、「もしできるなら、何とかしてたどり着きたい、死者たちから復活へと」となります。
キリストの本質に合わせられ、この世では十字架を担い、敗北の生涯を終えようとしていても、眼差しは決して絶望の淵にあるのではなく、望みを抱いて天に向かっている、その内なる叫びがここに結実しています。
私たちの生涯は、決してこの地上で完結するのでもなく、またここで終わってしまうわけではなりません。
神の義はこの今の現実において、私たちの目には貫徹されてはいないのです。
ですから、「復活」という視点がどうしても避けられないのです。

以上のように、パウロはカタトメースとの激しい対立の中から、彼らの主張と問題点をくみ取り、それによって主イエスの福音を的確に表明したのです。

割礼主義者にとってのキリストは、救世主、つまり社会の窮状、不公平、不正義を正す義人にして力強いリーダーでした。
確かにキリストにはそういう一面がありましょう。
困窮と圧政下にあったユダヤの民はまさにこの救世主としてのキリストを待ち望んでいました。
そのキリストに従うことで、この世での(正当な)成功、繁栄、平和の実現を期待し、望みをかけていたのです。
それはまさに青年サウロの姿そのものであったことでしょう。
そして、この地上に、自分達の手で〈楽園〉 を建設しようとする試みとなり連綿と受け継がれてきました。
そのためには、神から賜った律法や割礼、および言い伝えなどの遵守が当然視されたわけです。

しかし、神の聖なる「律法」ですら人間が手中にすると「怒りを招くもの」(ローマ4.15)に変質してしまうのです。

これは大変な逆説です。
律法が怒りを誘発し、殺人をも正当化するのです。

イスラム原理主義者の自爆テロだけでなく、キリスト教原理主義者によって引き起こされたと言っても過言ではないアフガン攻撃、そしてイラク戦争も、これによって正当化されているのではないでしょうか。

「律法が怒りを招く」、この意味は非常に深く、なかなか説明できるものではありませんが、その倒錯のただ中から救い出されたパウロは「律法(割礼)からの自由」を福音の本質として説いたのでした。
しかし、正にそれ故にカタトメースたちはパウロを許せない仇敵としたわけです。

しかし、パウロはこう主張します。
救いの根拠は〈主イエスのピスティス〉にあって、自分たちにはまったくない。

また、この世で私たちは〈完成〉されず、むしろ〈苦難〉と〈十字架の死〉であった主イエスに倣う歩みとなる。

しかしそれはケノス(無駄)では決してない。主は復活した。

この〈復活〉 こそ希望の根拠であり、これこそ「敗北の勝利」なのだ。

パウロの目に映る人生の真実はこうだったのではないでしょうか。
そして、その十字架につけられたイエス・キリストを誇るのです。
人間的な、この世的な成功を伴う栄光に輝くキリストではないのです。
十字架につけられ、賤しく低くされたキリストを誇ると言うのです。

今日私たちは、「勝ち組」とか「負け組」と言って人生の指標にしています。
パウロの主張はその「勝ち組」の人生観に真っ向から対峙するものではないでしょうか。
それは具体的には「進んで譲る」、つまり自分から負けるような生き方(後述参照)となります。
それは「勝ち組」の人生観に囚われた私たちには、容易に理解できないものかも知れません。

(5-2)対テレイオイ(「完全な者たち」)

次にパウロは、「テレイオス(完全な者)」と自称していた者たちに対峙します。
彼らは、キリストの福音により救われたことで、すでに自分たちは「完全な者」にされていると自認する人々でした。

彼らは、カタトメースの対極で、
律法や言い伝えなどからの《自由》こそ福音であり、
「わたしには、すべてのことが許されている」(Ⅰコリ6.12他)と主張していました。

ある意味で「律法からの解放」を唱えるパウロの主張を受け継いでいるように見えます。

おそらく彼らの急進的な生き方が、カタトメースらをより頑なにさせたのも事実でしょう。
パウロは、福音を急進的に曲解したテレイオスとも対峙せねばなりませんでした。

彼らに対して、パウロは当時の良識を尊重し「ユダヤ人にはユダヤ人に、異邦人には異邦人に」なり、「愛にあって」柔軟に接していました。
しかし、その在り方はテレイオスらにとっては、未成熟・未完成と映ったようです。
彼らはパウロを激しく批判し、時には揶揄して、パウロの使徒としての権威を無視し、教会に混乱を招いていました。
彼らに対してパウロは次のように主張しました。

12わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

最後の部分は、「〔本当のところ〕キリストによって捕らえられている」と〔 〕内を補って訳すとわかりやすいです。

「捕らえられている」は、「カタランバノー」で「得る、獲得する、勝ち取る」という意味です。
つまり、ここは「キリストに勝ち取られている」となります。

13兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。15だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。

パウロにとって、人間はこの地上では「完全な者」とはなりえず、たえず「目標目指してひたすら走る」存在でした。
「完全な者」とされるのは聖国で、なのです。

同様の消息を別の手紙でも述べています「わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(Ⅰコリ13.12)

この地上では未完成な存在だというのです。
これは自分たちを絶対化しない根拠ともなります。

「完全な者」たちは、自分たちは完成された存在であり、絶対だと自認していました。
だから彼らは自分の視点から他者を裁いていました。
しかし、それは根本的な倒錯なのです。

この世ではだれもが未完成であり、絶対的な存在ではありません。
だから、他者に対して絶対的な在り方で向き合うことはできないのです。
つまり他者を裁くことはできないのです。
主イエスは「人を裁くな」(マタイ7.1)と私たちを誡められました。

そしてこのことは、私たちが不完全な存在であるという現実を改めて示してくれます。

しかし、「…わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされています」(Ⅱコリ4.16)とパウロは語ります。

つまり、「外なる人」であるスケーマ(外観)はどんどん衰え崩れて行き、やがて消滅していきますが、「内なる人」つまりモルフェー(本質)は「日々新たにされる」のです。
私たちの現実の一面であるスケーマ(外観)がたとえ不備、不完全であっても、また日々衰え行くとしても、決して「落胆」すべきことではないというのは、とても慰められます。
現実は、特に理想を掲げ歩むとき、失望と落胆の連続ではないでしょうか。
正義はあるのか、神はいるのかと呻くことが多いのではないでしょうか。

しかし、それは失望ではない、絶望すべき事ではないのです。

現実の不完全な自分たちの現状(スケーマ)を受け容れる一方で、「変えるべきものを変える勇気を」を賜って「完全な者」となる希望を天に仰ぎ走り続ける、この二つの〈焦点〉が、地上を歩む私たち人間にとっては必要なのです。

アウグスティヌスは「神は私たちを今あるようにではなく、将来あるべき者として愛される」(アウグスティヌス『三位一体』1巻10章)と申しました。
これは、日本的「あるがまま」で良いという現実肯定、現実許容ではけっしてありません。ニーバーの祈りに通じます。

( O God, give us )

courage to change what should be changed,

変えるべきものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。 (ニーバーの祈り)


しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。16いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

これはローマ書にある「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです」(ローマ14.22)と同じです。

わたしたちはそれぞれ「真理の一片」(J・ミルトン)を有するものに過ぎません。
自他が有する欠片も真理の一部であることを受け容れること、そこに真の謙虚さが生まれます。
それは他者に賜っている「真理の一片」(=人格)を尊重することに外なりません。
ここに〈寛容の精神〉の源泉があります。

17兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。18何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。19彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

「涙ながらに言います」、パウロの勧告を無視、嘲笑する人びとに対するパウロの悲痛な呻きが聞こえてきます。
「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」とは「腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えてい」ない者をさすのでしょう。
「腹」とは私利私欲を象徴する言葉でしょう。その「腹を神と」するとは、貪欲までに食欲を肯定した言葉でしょう。
第1コリント書6章13節には「食物は腹のため、腹は食物のため」とあり、また、ローマ書の16章18節には「自分の腹に仕えている」とありますが、これは正に欲望の奴隷になった人の生き様を言い当てています。

「恥ずべきものを誇り」は直訳すると「栄光〈賞賛〉は彼らの恥の中に」です。
恥ずべき事を称賛するのは、よく見られます。
そして、「この世のことしか考えていません」。「考える」の原意は「思い耽る」です。
以上はまさに私利私欲に奴隷となった「ジコチュウ」な私たちの実態ではないでしょうか。

20しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

「本国」はギリシャ語で「ポリテウマ」です。
「国籍」(協会訳)とも訳せますが、共同体とか、生活する場所を示す言葉だそうです。

また、この部分を直訳すると、「私たちの国籍は天にあり、そこから〔来られる〕救い主、イエス・キリストを待ち望んでいる」となります。

ジコチュウな私たちは己の〈腹〉を神として、その支配下に生活しています。
しかし、パウロは真の神が支配する天に所属する者であり、その支配下にあることを表明して、彼らの生き方と対比しています。

21キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。 4 .1だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。

「同じ形に変える」は「シュンモルフォス」で、「モルフェーを同じにする」という意味です。

ボロボロでみすぼらしくなっていくスケーマを持つ私たちも、主イエスと同じ本質を持つ者に変えて下さる、という希望です。

ここでも聖国でこそ、私たちの〈完成〉 があることを語っている。ここに真の希望あります。

「テレイオス(完全な者たち)」の根本的な倒錯は、自分達の救いを含む神の聖業がこの地上で完遂され、自分達の救いは既に達成されたとして自らを「完全な者」と思いこんでいることです。
それは、自らを神の位置に置くことです。そしてそれによって人は、他者を〈裁く人〉と化すのです。
時には神をも裁くでしょう。
これが現代人の特徴ではないでしょうか。

「罪」とは何でしょうか。それは神のようになること、つまり神のような永遠性を人間が自分の中に取り込むことであります。

(大木英夫『信仰と倫理』94ページ)

しかし、主イエスの十字架に象徴されるように、神の栄冠はこの世で与えられるものではないのです。
聖国に至って完遂されるのです。
私たちはその希望を待ち望むことではじめて真に生かされるのです。


6.手紙C(4章2‐23節)

「手紙C」では、フィリピ教会内で問題になっていた不協和音、エボディアとシンティケ問題を端に、「広い心」、「人知を超える神の平和」などの勧めがなされると共に、フィリピ教会による援助、特にエパフロディトの派遣に対する感謝が述べられています。
このことから、「手紙C」は「手紙A」よりも先に書き送られたことがわかります。

◆勧めの言葉

2わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。3なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。4主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。5あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。

エポディアもシンティケもそれぞれ、エクレシアや神によかれと、それぞれの考えに従い熱心に活動したことでしょう。しかし、その熱心さが衝突を生み、更には分裂へと発展しそうになっていたようです。
もしかしたら、コリント教会のような状況に陥りかけていたのかも知れません。エクレシアの危機です。

「同じ思いを抱きなさい」は直訳すると、「同じことを考える〔思〕う」です。つまり一致を勧めています。
パウロはこの《一致》を目指し、信徒たちの協力を訴えました。

そして、この事態を打開する特効薬として、主イエスの福音の現れである「広い心」を提示します。

この「広い心」はとても深い示唆を与えてくれる言葉です。

ギリシャ語では「ト エピエイケス」と言って、形容詞「エピエイケース」の主格・中性・単数ですが、「寛容な、優しい、忍耐強い」などと訳されています。
しかし、石川康輔氏によると次のような深い意味があるそうです。

正義、権利、法、規則、建前といったことがらに、いたずらにしがみついたり、こだわったりすることなく、よりよい善の実現のため、とりわけ愛のために必要ならそれらのことがらを離れ、超越して行動しうるだけの柔軟で、寛容の考え方、態度、姿勢を意味」し、「譲る精神」「負ける精神」「損する精神」……。(石川康輔、『新共同訳新約聖書注解Ⅱより』)

これはパウロの特愛の言葉のひとつで、第2コリント書には「キリストの優しさと心の広さ」(Ⅱコリ10.1)とあります。

最も偉大なることは人に勝つことにあらず、人に負けることなり、かれにわが場所を譲ることなり、その下に立つことなり、歓んでその侮辱を受くることなり、唾せられて十字架に釘(つ)けられることなり。かくなし、かくされて、われは初めて神の心を知るをうるなり。実(まこと)に高き者は低くせられ、低き者は高くせられる。われら神に高くせられんと欲すれば人に低くせられざるべからざるなり。

(内村鑑三1912年)

この内村鑑三の言葉は、「ト エピエイケス」を的確に説明しています。

「広い心」とは、単に懐が深く寛容であるというだけでなく、もっと深い意味を持っている、それはまさに《主イエスの十字架の奥義!》に遡るものではないでしょうか。

その意味で正に次のアウグスティヌスのいう通りです。

不義な者と高慢な者を清めるただ一つのものは、正しい方の血と神の低さである。

(アウグスティヌス『三位一体』130ページ)

「神の低さ」つまり、主イエスの十字架こそが、人間の不義と高慢を根源的に粉砕するのです。

パウロの後継者達もこの言葉を重視しました。
たとえば、Ⅰテモテ書3章3節には「乱暴でなく、寛容で、争いを好まず」とあります。
同様にテトス書3章2節にもあり、いずれも「寛容」は「エピエイケース」です。

ここで「寛容」について余談になりますが触れたいと思います。
英語ではtoleration〈トレレーション〉といいますが、その元であるtolerance(トーレランス)には、大木英夫氏によると次のような意味があります。

「tolerance(トーレランス)とは、異質なものに耐えるという含蓄をもっており、そのような仕方で『他者』を容認すること」であり、「清濁併せ呑む」ような日本的寛容とは似て非なるもの……。」

近代社会の支柱として必須とされる「寛容の精神」とは、実にこのようなものなのです。
上記指摘にもありますように、日本的寛容とどのように異なるのか、それをしっかりと見極めないと、日本的寛容こそが世界平和の礎などという傲慢な発言をし、非現実的な夢想に捕らわれてしまいます。
他者をしっかりと受けとめうるかどうか、「異質な者に耐え」つつ「「他者を容認する」視点を持つこと、そして他者を交えた社会生活の中でその鍛錬と積むことが求められています。

本文にもどります。

主はすぐ近くにおられます。6どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

「どんなことでも」、また「何事につけ」とありますように、ここでは神による創造と歴史の支配への大胆な肯定(イエス)があります。
そしてそこに真に平安の根拠があるとパウロは主張します。
「あらゆる人知を超える神の平和」、私たち人類の最終的な希望は、ここにあるのではないでしょうか。
6節と7節は、この世の艱難にたえず捕らわれ、悩み呻く私たちになんと慰め深い言葉でありましょう。

8終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。9わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

前節に続いて、ここにも神の創造と歴史への全幅の信頼が表明されています。
隅々まで行き渡った神のご配慮が、私たちの目を天へと引き上げてくれます。

ギリシャ語では次のような単語となります。
参考までに英語訳と併記してみます。
真実true=「アレーテー」、気高いhonorable=「セムナ」、正しいrighteous=「ディカイア」、清いpure=「ハグナ」、愛すべきlovely=「プロスフィレー」、名誉なwell-spoked of=「エウフェーマ」、徳virtue=「アレテー」、賞賛に値することpraise=「アパイノス」。

これらは、非キリスト教文化、文明の中にも豊に溢れていますが、それらを決して否定するのではなく、そこにも神の創造の御手を見、また歴史を導き支配し給うのを発見できるというのです。
それは日常生活の中にも満ちています。
Ⅰテモテ書4章4節には「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからである」と記されているとおりです。

10節から13節はパウロへの援助に対する謝意を表しています。
また21節から23節は結びの言葉となります。

(2021年4月26日 note用にレイアウトなど変更しました。)


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