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現代日本霊異記 二十五

「軽部さん、退院の許可が出ましたよ。おめでとうございます。ご家族に連絡しておきましょうか。」
先輩が、僕を見る。
「ありがとうございます。Aさん、長い間、おせわになりました。僕から電話しておきます。」
そう言ってから、ふと気づく。僕は、彼女の名前を思い出している。
Aさんは笑って顔を引っ込めた。

スライド式の扉から消えていくAさんのナースキャップを見て、入院直後、母の心配そうな顔と父の不安な顔が、ぼんやり天井を見つめる僕を覗いていたことも思い出した。父の顔は、しぼんだ風船のように見えた。そんな父は初めてだった。僕がまだ5歳くらいのとき、キャンプに家族で出かけた近所の河原で、急な深みに足を取られて僕は溺れた。流れに足を引き込まれながら、僕はなぜだか力がぬけて水中から水面を見上げていた。水面の裏側がキラキラしていて、それが小さく暗くなっていった。気がつくと僕は、お腹いっぱいの水と一緒に引き上げられて河原に横たわっていた。意識を取り戻して急に泣き出した僕を見て、切れかけた遺伝子が再びつながった父は、慌てて飛び込んだのか頭から水を滴らせて泣きながら笑っていた。僕は、顔の中心に眉の寄った父の、垂れ下がった目が頬擦りするほどに近くにあったことをよく覚えている。

なんだかあのときの、嬉しくて悲しくて温かい感じを思い出した。
 
僕と先輩は、病院の屋上に上がった。
空を見上げると、お日様はご機嫌に空の一番高いところにいた。背景の空の色は、果てが見えないほど青かった。下を向くと、病院の駐車場や周りの道路に人が小さく動いて見える。
先輩が言う。
「お日様に何かあったように思っても、今は誰も覚えてない。毎日新しく起きる何かのために、順番に場所を空けていくのさ。その総体として世の中も、何かを忘れて変わりながら、結局大きくは変わらない。」
先輩が手すりから下を覗いて見る。
人が並んで歩く姿が、変わらない明るい未来を疑わない、幸せな行列のように見えた。熱力学第一法則を思い出す。加えらえたエネルギーも使われたエネルギーも変わらない。熱力学第二法則を思い出す。熱の移動は不可逆で、エントロピーは増大するしかない。
世の中も、エントロピーを増大させながら、でもどこかで変わらず何かが続いていく。じゃあ、最初の熱は、一体どこからやって来たのだろう。あの洞穴の前の僕のお腹に灯ったあの熱のようなものだ。誰か教えて欲しい。
「そうかもしれないですね。」
そう言って、僕は再び空を見る。
目の隅で何かが動いたように見えた。思い出せないあの何者かなのか。それとも天井に張り付いたあの「意識」なのか。
僕は少しだけ変わってもいいのだろうか。父のようでなくても、この世の中のたくさんのヒーローたちのようでなくても。あの「意識」に尋ねたくなる。
でも、彼ともお別れのような気がした。
さらば、天井の「意識」。
白い「意識」が、ニヤリと笑ったように思った。最後に何かを言いたげだったが、僕にはまだそれが分からない。
                              終わり