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「それを選ばない」って選択

普通それを選ぶよね?ってのが当然、それを選ばない方がおかしい、って感じの流れの世の中、だけれども。
そういう感じ、だけれども、それも知っているけれども、
「それでもそれを『選ばない』」っていう選択を私はけっこうする。
じゃあ、どうするの?って、それを選ばなかったら、どうするの?って感じなのですけど。

そうすると、結構やられる。例えば、潰しに来たり、傷つけに来たり、いろいろ。でも、今までもそんな感じだったから、知っているから、
うまくかわす。
柳のように、スライムのように叩かれて凹んでもボヨンともどったり、すり抜けて交わしたり、そんなイメージだけど、意外と顔面から突っ込んでいく。全然うまく交わせてないけど、顔面から突っ込んでいって、大丈夫大丈夫、って言いながら笑顔で傷まみれになりながら私の行きたいところまで行く感じかな。
で、「大丈夫でしょ?」って言っている感じか。
全然大丈夫じゃないし!!ってみんな思うだろう。

かなり強引にやって来るし、強引に壊そうとして来る、土足で入ってこようとする。
そんな時は、これのやり方が一番!でもオススメしないけど。
顔面から突っ込んでいって、大丈夫大丈夫、って言いながら笑顔で傷まみれになりながら進んでいると、諦める。
それでもまだやってくるときは、バシッとキレる。結界みたいにバシッと。
撥ね退けるイメージ。撥ね反すイメージ。

そうやって、守っていけばいいけど、いやかw
そうやって守っていけばいいし、そこに居たいならいて居てし、そこには居たくないなら必ず違うところがある。大丈夫。自由なんだ。

水と油みたいな感じで、鶏の油のような感じで、そのうち1つにまとまる。分離していたものが1つにまとまる。それが、水なのか油なのか、ここなのか、違うところなのか、好きなところでまとまったらいいし、それがないなら無理にまとまらなくてもいい。

私は、好きなところがなかったときは、自然と一緒にまとまらせてもらっていた。空とか風とか花とか草とか水とか、音とか、と一緒にまとまっていた。
人とじゃなくてもいい。猫でも、かえるでも。
神社でも、海でも、

もともと1つの物から分裂しておたまになったり、布団になったり、人間になったり、さるになったり、全部一緒だ。

じゃあ、あなたも私もおたまもいっしょだ。
あなたも私の片鱗で、私もあなたの片鱗で。

最近、なんだってこんな現象がおきるんだろうって考えてた。
それは、私じゃなくて、その人が望んでいることなんだと。
きっと受け入れてくれるって思うから、来るんだろうと思う。

だから「私が受け入れない」とした時に、衝突する。

でも、だいたい「それでもそれを『選ばない』」って選択する私の元に、私を肯定した感じで来るんだけど、でも本心では自分を受け入れてもらいたい。最後にはぶつかって壊れる。
受け入れてもらうのが人間だからそうなるのかなぁ。人間じゃなくて自然だったらどうだろうか。人間に受け入れられなくても、空には
私は何度もそれを経験しているうちに、どうにかもっといい方法で乗り越えられないのかって、いつもその方法を探している。

それでもそのやり方で来る人もいて。
私はどんな顔して会えばいいのか毎度毎度困る。
傷つけないようにやってみるけど、傷つけてしまうよな。

道が違えば、一緒に行くことは難しいんだ。それを合わせろ合わせろと言われれば言われるほど、その道が本当にいいのか???って私は何度も何度も訪ねたくなる。
私をつぶそうとするけど、本当につぶしていいのか???って聞きたくなる。
つぶそうってのは、私のやり方をさせないってことだ。あなたのやり方でいいのか???って何度も聞きたくなる。

まず、バロメーターは自分の身近にいる人達の顔だ。
笑っているか、辛そうか。元気そうか、しんどそうか。
それを意識して見ているか。

数学者の岡潔先生がいつも言っている『情緒』を鍛えておかないと、何でも物理的に考えていると、わからない。
例えば、見える顔は「笑ってる」。
でも、心は空っぽ、とか、合わせてる、とか、辛いとか。
辛くても笑うでしょ?

それは、私の顔だって一緒だ。

私はやってみたいやり方があって、それは今までのやり方じゃないから、一緒に居ると歪んでくる。
しょうがない。
今の世の中の人たちがみんなじゃなくてももっと多くの人が最高にハッピーなら、きっと私は何もやらないし、そのやり方で良いと思う。
けれど、私のものさしでは、そうじゃない。
だから、もしかしたらこうやった方がいいんじゃなかっていう方を、私は凄くやってみたいのだ。

で、最初のそれに戻りますけど、普通それを選ぶよね?って感じの流れの世の中、それは今までの常識だからさ、そうだけど、
「それでもそれを『選ばない』」っていう選択

きっとね、神様が人間作るのへたくそ過ぎて、バグが多すぎだからさ、こんな世の中になってるんであって、何も誰も悪くない。

自分が普通だと思っているかもしれないけれど、本当にそうかしら。
だいたい『普通だ』って思ってしまうということが、最大のバグなんじゃないかって、思う。
絶対みんなずれてるし、ずれているからこそプリズムのようになって、艶やかで綺麗なんだろう。

例えば、まるまるちゃんは椅子の足の汚れが気になって、まるまるちゃんは壁に飛び散った油が気になる。まるまるちゃんは、冷蔵庫の中の汚れ、まるまるちゃんは窓の汚れ。でも最初のまるまるちゃんは油の飛び散ったのにはあんまり興味がない。

、のように、いろんな人が同じ空間に居ても、気になる部分が違うから、いろんなところが綺麗になって行くのだ。プリズムみたいで良いでしょ。

けれど、椅子の足の汚れが気になるまるまるちゃんが言います。
「なんで、足の汚れをきれいにしないの???みんなやって!!!」
すると、どうでしょう。
例えば30分みんなでイスの脚をきれいにしました。まるまるちゃんは満足ですけど、他のまるまるちゃんの気になる部分は手付かずです。
だったら、30分、みんなそれぞれに動いたら、窓も壁も冷蔵庫も椅子の脚も全部綺麗になる。

独壇場beautyなんだ。

結局言いたいのは、私は「それを選ばない」ってことだ。
師匠に対してもそうだ。「なんであべは、みんなと同じに出来ないの!!」って怒ってたけど、みんながやっていることが良いとおもったらそうする。でも、あんまり良いと思わない事だから「それを選ばない」ってことだ。

だいたいこの世の中が、最高に豊かでハッピーな世の中だったら「それを選ぶ」よ。でもそうでもないから、全然そうでもないし、もしかしたら、こっちの方がいいんじゃないかって方向があるから、私はそっちを選ぶんだ。

だから、妨害が激しいんだと思う。
でも、妨害している人たちが「こっち!」って方向が、全くおもんないねん。プリズムみたいにいろんな色に輝けるならいいけど、こっちって方向が「灰色」だ。
きっと、資本主義基準の方向なんだと思うけど「それもそうなんだけれども『選ばない』」。

私は、嘘をついたら罰が当たるとか、トイレをきれいにしてたら可愛い赤ちゃんが生まれるとか、おなかを出して寝てたらおへそをとられるとか、そんな昔おばあちゃんから聞いたそんな世界が好きよ。
だからさ、こんなのもどうでしょうかっていうサンプルの1として、私はあって、未来を生きる人達の選択肢が1つでも増えたらいいと思って動いています。

そのつぶす人たちは、そういうことを思って私をつぶそうとしてきているのだろうか?
つぶすっていうのは、私の行きたい道を行かせないということ。
その人たちが示す方向ってのが、今まで通りの灰色だったら、まじで、むかつく。灰色はそこら中にあるから、そこでやってもらったらいい。

私はあると思っていて、ただ、誰もやったことがないから、ないだけで。
やったら、あるんじゃないかって思うし、私はそれをやってみてるのだ。

Love & peace.
Respect each other.

明日仕事早い


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