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いつかこの頃を思い出してきっと泣いてしまう


子どもを育てる上で感じるのは、
「自分が経験していないことは、根本的にわからない」
ということと、それに加えて、
「自分が経験していても、わからないことはたくさんある」
という極めて当たり前の事実である。

それぞれの家庭環境も保育園に預ける理由も、家庭で育てたいと思う理由も人によって異なるから、誰もどちらがいいかなんて判断は出来ない。それはいわゆる「普通」分娩とか「自然」分娩と言われる陣痛を経て産む方法と、逆子や前置胎盤や既往症など様々な理由から帝王切開で産むのとどっちが「ラク」か?どっちが「痛い」か?なんて簡単に比べられないのと同じだ。高度に個人的な条件によってできた経験は、簡単に比較ができない。

保育園には保育園の、家庭には家庭のよさがある。どちらかにしか用意できない育児環境があって、どちらかが万能であるわけじゃない。

私は、早生まれの2人の子どもたちを、それぞれ生後2ヶ月から保育園に預けた。後ろめたい気持ちもなく、嬉々として預け、嬉々として働いている。現実的には、仕事を続けるのは自分と扶養すべき家族のためだし、働かないという選択肢は経済的にもないのだが、たとえものすごく金持ちで働く必要がなかったとしても、やっぱり働きたいと思っただろう。それは自分の仕事が好きだからで、研究は休んだら感覚が鈍ってしまう職だから止まりたくないからである。そして教育者としての仕事は自分の存在意義を実感できるし生きる力をあたえてくれるからである。好きだから仕事できる日はとてもワクワクしている(「月曜日のわたし」)。

保育園は、私の子どもにとっても、親である私自身にとっても、双方にいいところがあった。保育士さんは子どもに関するプロだから、たくさんの遊びや接し方、色んな誘導の仕方を知っていて、見ていて子育ての参考になる。長男の時は子育て自体が初めてだったから、特に心強かった。保育園での生活リズムは、規則正しい生活の基礎になった。それぞれの月齢にあった遊び、チャレンジ、保育園で栄養士さんが考えてくれる手作りの給食メニューまで参考になった。偏食だったり、夜泣きがひどかったり、ハイハイができなかったり、言葉が遅かったり、子どもにはそれぞれいろんな「特性」がある。保護者である親は、それに悩まされることも多いけど、そういうのがある人ほど保育園は本当に心強い存在だと思う。

子どもたちは先生が大好きだし、保育園も大好きだ。今まで二年間通ってきて、朝保育園に着いて泣いたのは、片手で数えられるくらいしかない(次男が生まれてから2ヶ月目くらいのとき、長男が不安定な週があった。でも私が帰ると「すぐに切り替えられられていました」と先生からの報告に書いてあって、安心した)。

「アンチ小さい頃(主に3歳まで)の保育園利用」の人たちからは、よく「子どもが可哀想」という意見を聞くが、どうして他人の子どもの代弁ができるのだろう、と思う。うちの子どもにも大きくなったら保育園がどうだったか聞いてみたい。少なくとも今は、しゃべれるようになった1歳過ぎくらいから、保育園でやったたくさんのことを話しながら、笑って「楽しかった!」と言って帰る。お友達としたかけっこ。毎日いろんな公園に行って楽しむはっぱや石集め、リトミック、季節の歌、お砂遊び(長男は遊具にあまり関心がない)。先生たちが出し物を用意してくれる誕生日会やクリスマス、節分などの季節のイベント。夏の小さいビニールプール。どれもこれも、特別な経験ばかりだと思う。

長男が0歳児クラスにいた時、年度末の懇親会で担任の先生に、「Sくんはお家ですごく愛されているのがわかる」と唐突に言われて、思わず泣いてしまった。今の保育園は認可ではなく、年に二回だけ親の集まる懇親会がある。園で撮りためてくれたたくさんの写真のスライドを観せてくれたあと、親と保育士さんで子どもの成長や今考えていることなんかを輪になって話す。みんなそれぞれの子どもの様子や成長を話しながら、泣く。朝送りに行ったとき、先生に「いってらっしゃい」と言われるのがとても嬉しいこと。ずっと偏食だった子が、お友達からの刺激でどんどんご飯を食べるようになったこと。保育園での生活を通して、一人でできることやお手伝いが増えたこと。嬉しかったり大変だったり、子どもを育てながら仕事をしているなかで、色んな苦労や葛藤がある。

先生も泣く。子ども、それも0歳児から3歳児くらいの乳幼児でも、人間に向き合う仕事はいつも全力投球が必要とされる尊い仕事だと思う。たぶんこの懇親会で、先生たちは自分たちの仕事がいかに保護者たちに必要とされているか、頼りにされているかをまざまざと感じるのだと思う。そしていつも本当に大変な思いをして、子どもたちに向き合ってくれているその苦労が、私たち親の感謝と保育園への思いを知ることで、少しでも報われるようにと願う。

去年度末の懇親会の最後、2人の男の子を育てあげた保育士さんが「家事なんて、手を抜いちゃってください。その時間、子供たちに向き合ってください」と言っていた。私はその教えを忠実に守っている。そして今回の懇親会。いつもハキハキきびきびと動く、一番年長らしいベテランの保育士の先生が、自分にも娘がいて、働きながら育てたことを話しながら、「この時期は本当にすぐ過ぎてしまうから、大事にしてあげてください」と言いながら泣いていた。そしてお母さんたちもやはり、みんな泣いた。

ああ。
私は、こういう場面に何度もあったことがある。

電車のなかで話しかけてくれる年配の女性。
私にも娘がいるの、うちも年子だったの、孫がいるの、と話しながら、「大変よねぇ」「でも今が一番可愛い時ね」、そして「この時はすぐ終わってしまうから」と言う。だから大切にしてね、などと押し付けがましいことを言う人はほとんどいない。でもそのときはみんな、記憶のなかの子どもたちと当時の自分を思い出して、幸せとも寂しさとも見えるなにかを、ほわんと漂わせているように見える。

仕事をするのをやめられなくても、私は今子どもとの黄金期を十分に過ごせているという自信がある。保育園があるからこそ、私は自分の仕事を続けられ、子どもに余裕をもって向き合うことができる。子どもの成長を一緒に喜べる人達がいて、地域や周りとのつながりができ、時には子どもを客観的に見つめ、何が子どものためになるのか考えることができる。私が大好きな仕事は、将来子どもに私が伝えたいことを持つ意味でも大事にしていきたいと思う。鶴見俊輔さんのいうように、私という母親は、子どもたちにとっての「先住の抑圧民族」みたいなものだけど、子どもたちには、いつでも(望んだときには)私から自由になれると知ってほしい。そのためには、私の存在意義が、子どもたちだけにない、ということが大事だ。

布団にごろーんとして、ひっくり返ってケラケラ幸せそうに笑う子どもを見ているだけで、この子にとって人生とは、生きるってこと自体なんだろうなあと思う。食べて寝て、毎日同じ家で同じ人間と一緒に起きて、それでも会うものすべてが新鮮で新しい感触をくれるものなんだろう。

でもこの時期はすぐ終わる。
私もいつか、それはきっとそう遠くない先、この頃を思い出してきっと泣いてしまうだろう。先生たちのように。先輩母さんたちのように。

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