08/04
さきにやるぞ!
自らの心の底から湧いて出てくるような問いがあるかどうか
私はない方である。 問いでさえ、誰かにもたらされてきたのだ。
世界で誰かが「これはどういうことだ」という問いを抱いている。 それが世紀の発見につながろうとそうでなかろうと、自分から湧き出た問いというものはその人にとって切実であり、その人自身を強烈にidentifyする。
私世代はまさにそういう自分から浮かぶ問いがもてはやされ、自主性の尊重という名前で実質的に推奨されていたように思う。
自主性には(おそらく有名な)ある議論がある。 「こういうことをやりたい」と積極的に言っている人がいても、その「やりたさ」はその人にとって切実なものではなく、「自分からやりたいと言えば自主性があることになる」から言っているだけかもしれないのだ。 集団が自主性を“推奨”──行動をなるべく制限しないという意味での“尊重”ではなく──すればするほど、その構造を察知した側にハックされ、相手の顔色を伺うレースに組み込まれ、結果的にはその集団において自主性は存在しなくなる、というものだ。 ここでは自主性を他者の行動や評価に依存しないような性質だと解釈したわけだ。
しかし「他者に依存するな」という説教は聞き入れても聞き入れなくても結果が同じであるため、言うことにさほど意味がない。
ならば他者にここでの意味での自主性を持たせるためにはどうすればよいかというと、よい方法の一つとして「自分は究極的には何にも制限されず、自由なのだ」と自分で発明させるやり方がある。 しかし愚直に「他ならぬあなたが自由なのだ」と言っても、言われた側には疑問が伴うだろう。 人間が数十億人いて、私はその中の1人であり、なぜ私だけが特別なのか、その特別さはなぜあなたには当てはまらないのか。 規範と遵法意識と数種の貧しさで満たされた世界でその命題を丸呑みできるかというと、難しいだろう。
最近では「無敵の人」などが取り沙汰されるようになって、この手の議論が幾分身近になり、SDGsを軸としたコンプライアンス問題が流行っているために、つまり「道徳」が流行っているため、むしろこのことを運命的に感じて飲み込める人もいるだろう。
このことを至極当然のこととして生きてきた人もいるだろう。
あとほかに同型だが別の問題があり、この「自由なのだ」という発明そのものにとらわれてしまうようなことが可能だ。 自分の中で自由さを強調するがあまりに自由でなくなることがある。 ここの議論を階層だててうまく整理できれば良いのだが、今の私には能力がない。 自由の本質にはどれほど階層的な広さがあるだろうか。
ここまでの議論もまた、私のものではない
色々そのままにしちゃっています