08/01
動機が死の回避で統一されてしまった時がある
親はじめナントカカントカ言う人たちは、ほかの人にさえ死んでほしくないのだということに気づき、あらゆる説教が「死んでほしくないから言っているのだな」と解釈されるようになった。
多分「死ぬんじゃねえ」的なセリフをテレビで見て、いたく感動し、全部がそういう動機から言われていればしめたものだと思ってそう思ったのだろう。
しかし死んでほしくない・死にたくないからといってどれだけ小言を言っても人間はいつか確実に死ぬのだから、無駄だなというか、祈りのようだと思った。
いや、無駄だなと思った。 イキっていたからだ。
それを一旦誰にも言わずに自分だけの考えにしておいたのは、無駄だと指摘しても誤解されるだろうし、怒られるのは嫌だったからだ
そのあと小説にハマったけれど、その辺の重要なことは結構ぼかされており、紙幅が全然割かれていなかった。 活劇部分と同じくらいここのところをやってくれよ、と思った。
漫画やアニメによってそういう話ばかりするやつを読んだが、かえって今度は私の思っていたことがごく前提的になっていて、「なんだみんな思ってたんじゃん」と思った。 有効な反論らしきものがなかったが、自分の思いついたことを守りたいがために聞き流していたかもしれない。
それ以降さまざまあり現在に至るのだけれど、これまでの人生のなかで一番冴えわたっていたのはいつだろうかと考え直すたび、動機を死の回避に統一し、いつか死ぬから行為はほとんど祈りだと結論づけた、あの時だと思うのだ。
色々そのままにしちゃっています