07/31

え〜今日ははっきり愚痴ですね 現状に対する批判的な主張とも言えるかもしれないけれど、記事の届く範囲を考えれば愚痴です ことの大きさもそこまで大きくないです。




YouTubeのコメント欄の話です

iPadだとコメント欄は基本的に閉じている。以前は上側に開けっぴろげだった。たくさん評価をあつめているコメントがひとつだけ見えるようになっているのだが、それを見るとげんなりすることが多い

別にその内容がどうこうではない。 動画の主旨をはずれていたり、自己主張が強すぎたり、youtubeのポリシーから外れていそうだったり、それらは粛々と動画の視聴者層と内容によって決定されていく。 むしろそのチャンネルの色が見えて嬉しいことだってある。 そこの悪さをツッコむことも大事だろうが、私はそれとは別のごく個人的な良くなさを感じ取っている。

ポイントは「評価の多いコメントが“ひとつだけは”見えてしまう」ところにある。そのコメントが一つしか見えていないがゆえに、そのコメントがコメント欄を代表しているような気分になってくるのだ。 実際には動画を観ていろんな人がいろんなことを思っていて、わざわざコメントしないまでもさまざまな感想があったはずであり、ひとつのコメントがそれらを代表することは不可能だろう。「無理やろ」と思う

それが「こちらが正解の反応でござい」とベストアンサーばりに張り出されていると、嫌な感覚がある。 少し複雑な機微のある感想を抱いた人がいたとしてもその目立ったコメントの方を正解の反応だと認識し、自分の感想をそこにあわせるような光景が浮かんでしまって、浮かんでしまうことが嫌だ。

 だがもしそれで実際に感想が一辺倒になっていってたとしても、これはさっき言ったチャンネルの色みたいなものが生成されゆくことを加速させている点でよいことだとも言える。 棲み分けが高速で行われるわけですね。 


嫌な気持ちが整理されてきたのでまとめると「ひとつのコメントにできもしないコメント欄の代表みたいなツラをさせてしまっていること」「そのコメントに自分のコメントが左右される人が一定数いるだろうと思ってしまうこと」

それが主な嫌ポイントですかね。 動画への重要な補足とか、タイムスタンプだけ投稿しろとかコメントの内容を嫌だと言ってるんじゃないですよ。 あくまでその時に評価の高いコメントが一個だけ見えているというUIに嫌さを感じるのです。 しかもそれは自分で勝手に思って勝手に嫌がっていることで、実際にそうなっているかは関係ないのであるから、本当に勝手な嫌がりなのである。

その勝手な嫌がりという事実がまた嫌さを生み出していて…… と、無限に嫌がることができてしまうため、ここらで打ち切りです。

心が負に寄っている時はこういう外部に左右されない地産地消の嫌がりをすることができて、世話がない。 正に寄っている時は地産地消のよろこびを感じることができて、これまた世話がない。

では、これらふたつについてはどう思ってやろうかな?


色々そのままにしちゃっています