動画 想念撒き散らし
ファスト映画が問題にされていた時期があった
動画配信サービスや動画投稿プラットフォームにおいては、途方もない量の映像コンテンツが提供されている。
基本的には手のひらにおさまるくらいの小さなリモコンで倍速再生し、重要そうだと思ったら等速で観る、もっと重要そうだと思ったら1/2倍速で観たり、1フレームごとにしげしげと鑑賞したりするのだ。
観賞体験がより観る側のものになって、製作側もそれに対応する形で情報の密度を高めたり、緩急を再建していったりしている。
静画と動画は、語のつくりからわかるように同じ“画”ではあるのだが、そこから読み取れる情報の量は(記録媒体の取り扱いなどを無視すれば)基本的には動画が優越する。
情報の質においては、動画の情報量の多さは「説明のしすぎ」などとなって現れ、静画と区別されうる。 観賞体験が観る側の想像力や事前の知識に任せられることがなく、より画一的なものに(製作者からすればより制御されたものに)なるのだ。
静画、動画を経て、私たちは次の視覚的な表現媒体・観賞形態が生み出されている現場に行き当たっていると言えるのではないか。
視覚的な情報をもたらすには動画がもっとも究極的で、それ以上無いと思われていたところに、コントローラーが配られ、何か別のことが始まったのだ。
ああいや、なんか3Dの時代もあった
つくる側は自分の表現がどういうものになるのかわからぬまま外に打ち出し、みる側は飛んできたものをそのとき持っているものでなんとかとらえる。
そのさまは、一方的な表現の授受と比べてなんとも泥くさく、頼りないものになったのではないか。
しかしこの頼りなさが本来われわれのいるところの実態なのであって、技術がそれをまたしてもあからさまにしてしまっただけ、とも言えそうだ。
私は、世界をよいところだと思った
、
色々そのままにしちゃっています