オットの蔵書との別れ

オットが亡くなってから,私は断捨離を続けた。とはいえ,おもに処分したのは私も持ち物や家事に関するもの。オットの物は,雑誌などの重要度が低いものしか処分してこなかった。

重要だが,着手しなければならなかったのが,蔵書だ。

オットはある分野の書籍を買い集めていた。それを物置部屋の本棚に収めてきたが,2年ほど前にそこを息子の部屋に改造した後もそのまま置いていた。本棚の棚板が本の重さで撓んでしまい,息子がアレルギー性鼻炎で部屋の物を少なくした方がいい。私は残念ながらその分野には疎く,子ども達も関心がない。価値がわかりそうな古本屋をよび,引き取ってもらうことにした。

本を取り出し,一冊ごとに古タオルで拭き,引き取りを依頼するものと,手元に残すものと分けた。

オットがあれほど好きだったことだ,基本から中級程度までは理解して,オットの思考の跡を辿ってみたいと,入門書や面白そうな本は手元に残す山へ積み上げた。

ところが,その冊数が思いのほか多くなってしまった。手元に残そうと積み上げた本を見上げて考えた。

はて,私はこの本を読むのに,何年かかるだろうか。

オットが心を躍らせたように,私はこの本を心から楽しんで読めるのだろうか。

「夫が残した蔵書を読む遺された妻」。それが私がなりたい姿だろうか。

私の残りあと30年の人生を,この本を読むことに費やしていいのだろうか。

答えは否だった。

どれだけ愛していても,どんなに頑張っても,オットと同じ思考はできない。そうなろうとするのが,私がやるべきことにも思えない。

それは,痛烈な気づきだった。

オットの価値観を理解し,それに沿うようにしてきた。けれど,完全に同じにはなれない。私とオットは別人格だ。そして,私は生きてここにいて,違う道を進もうとしている。

積み上げた本を再び手に取り,私が理解できる本を,読める時間の分だけ残した。

年明けのある日,古本屋が訪れた。

古本屋は,廊下に積み上げた本を次々と値踏みしていく。一般書がひと山いくらで根付けされた後,専門書に目を止めた。

「これは・・・」

古本屋は手持ちが少ないので,お金をおろすためにコンビニに行った。そして戻ると,手際よく本をビニール紐で括りあげた。私は廊下の端に座り込み,本が運び出されるのを見送った。オットの一部が去っていくみたい。

意外とまとまった金額を受け取った。オットの本を見る目が認められたようでうれしい。

古本屋が玄関から去った後,私は上着も羽織わずにベランダから身を乗り出し,マンションの前に停車している古本屋のワゴン車を見つめた。せめて最後まで見送りたい。

夕闇に浮かんで見えた白い車は,ゆっくりと発進し,そして曲がり角に消えていった。

さようなら,と私は小さく呟いた。




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冴子
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