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「病が新たな目標を与えてくれた」フットゴルファー柴田晋太朗選手(インタビュー第2回 前半)

 柴田晋太朗さんは幼い頃からサッカーに打ち込み、世界で活躍するプレーヤーになることを目指していました。横浜Fマリノス・プライマリー、FC厚木DREAMSを経て、日大藤沢高校に入学。2年時(2016年)には神奈川県Uー17選抜の主将を務めるほどの選手になっていました。

しかし、2016年の夏に、100万人に1人という希少がんの骨肉腫が右上腕に発症していることが判明。抗がん剤治療を受け、2016年12月には右上腕骨を人工骨に置換する手術を受けました。

第1回のインタビューでは、骨肉腫であることが発覚してから抗がん剤治療を受けたところまでのお話をお聴きしました。

第2回のインタビューは、Zoomを使って実施。前半は、2016年12月の人工骨置換手術からサッカーに復帰したところまでのお話をおうかがいしました。

              (聞き手=スポーツライター 佐伯 要)

20200515柴田晋太朗選手取材第2回録画_Moment

       (左:柴田晋太朗選手 右:佐伯要)


復帰への道のり

――2016年12月に右肩の人工骨置換手術をされましたが、これはもともと予定されていたものだったのですか?
「そうですね。骨肉腫が発覚した際に決まっていたことです。この手術を元にその前後の治療を考えていたので、まあ、流れるべき流れで来たんじゃないかなと、当時は思っていました。大きな節目を迎えたという感じですね」

――ここでの心の動きは、どうだったのですか?
「ブレることは無かったんですけど、ただ、『どうなるのかな?』っていうのはありましたね。手術後は右腕が上がらなくなると医師から知らされていたので、『それってどういう感覚なんだろう』みたいな。普段、当たり前のようにバンザイをしたり、高いところに手を伸ばして物を取ろうとしていたりしていたのが、できなくなる。そう考えたときに、すごく不思議な感じになるんだろうなと思いつつも、ちゃんとリカバーできるようなことも探さなきゃいけないのかな、とかいろいろ考えていましたね」

――サッカーは、ボールは手で扱わないスポーツだとはいえ、右腕が上がらないのは影響はありますか? 
「サッカーにおいて腕を使うのって、メチャクチャ大事なんですよ。相手を抑えたり、ドリブルしているときに腕の上げ下げで自然にバランスをとっていたり、体勢を崩したときにも腕の反動などを利用してバランスをうまく保っていたりしたので。復帰した後には、腕の重要さがより理解できましたね」

――特に左足で蹴る人の場合は、右手を上げて蹴るというフォームですよね。
「おっしゃるとおりなんですけど、復帰したとき、止まっているボールを蹴ることにはあまり困りはしませんでした。直立の姿勢をうまく保ちながら、右腕が使えないなりに遠心力を使って体をねじって反動で蹴る――というようなことが、すぐにできたので」

――なるほど。右腕が上がらなくなって感じた不便さとか不安は何かありますか。
「最初に思ったのが、『うわ、すごい。ホントに上がらないんだ』ということでしたね。『こんなに腕を上げられないんだ』って。なんか、オモチャがついているみたいな感じ。術後、食事では左手で箸を持たないといけなかったのですが、今まで持ったことがなかったので、食べられるのかなと思っていたんです。でも、意外とすぐに使えて食べられたので、特に不便さは感じなかったです、正直」

――手術後は、1ヵ月くらい入院していたんですか?
「手術が12月14日で、クリスマスはたしか病院で過ごしたんですよ。だから、その2週間ぐらいは病院にいて、そのあとは三角巾で腕を吊った状態で退院して、(2017年の)正月は家で過ごしました。『安静にはしていて』と言われたんですけど、お正月前だし状態も良くて医師からも許可が出たので、退院しました」

――ボールを蹴り始めたのは、手術後どれくらい経ってからなんですか?
「1ヵ月くらいは安静にしていました。動いて人工骨がズレてしまうと大変なことになってしまうので、1ヵ月は空けてから、徐々に。その1ヵ月の間にもトレーナーの方にほぐしてもらったり、軽く運動したりはしていたんですけど、1ヵ月後から徐々に本格的に動かすようになって、軽くですけど、ボールを蹴るようになりましたね。友達と、ホントに軽いインサイドパスとか。激しくは蹴らないけど、ちょっと体をなじませる程度から」

――その時期、サッカーへ復帰する思いはどうだったのですか。手ごたえなのか、不安なのか。
「いやあ、もう『やってみなきゃわかんないな』って感じでしたね、正直。止まったボールは闘病前と同じように蹴れましたし、キックの精度も自分で見てまったく問題なかったと思うんですけど、やっぱり試合になると相手が出てくるので。実際に相手をどうかわしてプレーするか、今までやっていたプレースタイルとちょっと変えないとやっていけないなと、結構考えました。その面では、新たな自分に適応するためにいろいろ悩みましたね。例えば、相手に寄っておいて、自分がオトリになって、味方に自分を使わないでプレーをしてもらう。また、スペースを空けておいて、もらう前にすっとそこに入って、ワンタッチ、ツータッチでなるべく球離れをよくしながら、自分がボールを触る回数を増やしていく――というようなことを心がけていたかな」

――手術後に初めてボールを蹴ったときの感情は覚えていますか?
「『ああ、重い』っていう。『ボールってこんな感じだったっけな』みたいな感じでしたね。『ああ、久々に蹴ったな』っていう、しみじみとした感じで」

――「ここから復帰へ向かっていくぞ」っていうアグレッシブな感じというよりは、しみじみというか。
「そうですね。『よっしゃ、やってやろう』みたいなのは特になかったです。『ようやくボール蹴れたな』『やっぱ、ボール蹴るのっていいなあ』みたいな。そういうのをしみじみ思っちゃうタイプなので」

――やはり、ボールが蹴れない時期があって、改めて……となると、当たり前の日常が戻ってくる感覚があった?
「そうですね。ボールを蹴れるっていうのは、やっぱり自分が生きてくうえで大事な要素の一つなのかなって感じました」


忘れられない誕生日

――2017年4月30日、ご自身の誕生日には日大藤沢高サッカー部の3年生たちが病院に来て、シューズをプレゼントしてくれたそうですね。
「そう、そう、そう、そう。そのときは手術後の抗がん剤治療をやっていまして。しかも、それがちょうど最後の1クールでした。ちょうど抗がん剤の点滴は終えて、流しをしている状態のときだったんです。その2日後ぐらいに退院する予定で、ようやく『治療終わり』みたいな、そういう時期だった」

誕生日の写真

2017年4月30日、18歳の誕生日を迎えた柴田選手(中央 黒のニット帽)と日大藤沢高サッカー部のチームメートたち 【写真提供=柴田晋太朗選手】

――では、一連の治療の一区切りの最後の段階でみんなが来てくれたっていうことですか。
「たまたま自分の誕生日とその治療の終わりが重なり、そこにみんなが来てくれて……そういう日でした」

――この日、チームは関東大会の神奈川予選の準々決勝で、東海大相模高と対戦した日だったそうですね。
「準々決勝で東海大相模高と試合して負けた(0対0、PK戦で5対6)後に、みんなが来てくれたんですよ。夕方前ぐらいだったかな」

――全部で何人ぐらい?
「もう全員が来てくれました。マネジャーも含めて、30人ちょっとかな」

――全員が病室に入ってきてくれたっていうこと? 
「病院に庭園があるので。そこにみんなに行ってもらって。みんなが病棟の中に入ってきちゃうと、看護師さんとかが困っちゃうから、『俺がそこへ行くから』って言って。そこに行くと、みんなが待っていてくれて、サプライズバースデー会みたいなことをしてくれました」

――みんなとはどんな言葉のやりとりをしたんですか? 
「うーん、やっぱりなんか『体調どうなの?』みたいなこととか、『おめでとう』って言ってくれるヤツもいたし。詳しくは覚えていないんですけど、いろんな話をしましたね。庭園だけど狭かったので、ワチャワチャしているから、すれ違い間際に話すような感じで。いろんな人がいっぺんにオレに話しかけてくれるので、一人ひとりと面と向かって話したっていうよりも、いろんな人と喋りながら……という感じだったんです」

――シューズのプレゼントはサプライズだったんだ。
「いや、もう、ホントに何にも知らなくて。後で聞いたら、部員全員が少しずつお金を出し合って、一番高いシューズを買ってくれたっていう。いやあ、あれはホントに感動しましたね」

――『ハッピーバースデー』を歌いながらプレゼントされた?
「誰かがケーキを持っていて、そのときにみんなで歌いながら踊ったりしていたんですけど、それがひと段落したときに、『これ、プレゼント』ってシューズを渡してくれたんですよ。あの瞬間はもう、一生忘れられないですね」

――みんなにとっても、かしこまった儀式にしたくなかったということなのかな。
「たぶん、みんなの性格ですかね。ただ遊びにきただけ、みたいな」

――シューズは誰から手渡されたか、覚えていますか?
「誰だったっけなあ……。それが、イマイチ覚えていないんですよね。候補は2、3人いて、その誰かから貰ったんですけど……。ちょうどシューズをもらうときの写真はおそらく無いんですよ。『わ~い』ってなった後に、『実は』って感じで、すっと渡されたので。たぶん、その瞬間を、誰も撮影はしていないと思うんですよね」

――そのシューズは宝物?
「いやあ、間違いないです。一生忘れないです」

――今、そのシューズはどうしてるの?
「しっかり保管していますし、サッカーをする機会があれば履いています。でも、ホントにいいスパイクなので、簡単には使いたくない。きれいな天然芝でやるときぐらいしか履いてないですけど」

――特別な感じなんだ。
「いやあ、もちろん」

――シューズに込められた意味は、どう捉えたんですか?
「いや、もう、間違いなく、『早く復帰してサッカーしよう』っていう、その思いしかないなと思いましたね。これを貰って復帰しないわけにはいかないというのもありましたし、『これを履いて、みんなともっと上を目指してやっていきたい』と思いました」

――そのあと5月になって、チームには合流するんだよね。インターハイ予選から、スタッフとして。
「そう、そう、そうなんですよ。佐藤輝勝監督のご厚意というか、『一緒に闘おう』という意味で、自分をベンチに入れてくれて。監督はすごくいい方で、人を特別扱いする人ではないんですけど、僕を選手ではなくスタッフとしてベンチに入れてくださって。『一緒に闘ってくれ』と言われたので、もう、それはすぐに『一緒に闘います』と応えました。そのときは、マネジャーの仕事もやりましたし、コーチとして監督やまわりの指導スタッフと、チームをどうしたらいいかという話にも参加しました。自分もただ観ているだけじゃなくて、選手に『こういうプレーの方がいいんじゃない』と伝えたし、『自分はチーム一丸となって闘わなきゃいけない一人なんだ』と自覚して、ベンチに入っていました」

――その一方で、自分が本来いるはずの場所に立てない悔しさ、もどかしさは?
「そうですね……。もちろんありましたけど、でも、やっぱり、『今は支えるのが大事だから』と、どこかでちゃんと区切りができていたかな、と。ピッチに行きたいときはベンチから前に出ていって、芝生を踏んでちょっと自己満足して……とか、そういうこともしていましたね」

――「いてもたってもいられない」みたいなところはあった?
「いや、ありますね、それは。試合が始まる前に、選手たちはピッチの中でボールを蹴るじゃないですか。そのときは誰よりも先に行ってボールをグラウンドの中に蹴り入れて、ボールを返すときも全部やって……。とりあえずボールに触っていたい、みたいな」

――そういう風にチームを見ている中で、復帰への準備も同時に進めていくわけですか? 
「まだ練習には……。練習に入るようになったのは、8月のインターハイ(全国高等学校総合体育大会)が終わったあとぐらいかな(2017年8月4日のインターハイ決勝で日大藤沢高は流通経済大柏に1対0で敗れ、準優勝)。急に練習に入ると身体が追い付かない部分もあるし、上半身の心配もあるので、リハビリもしながら。それで、インターハイが終わる頃に練習に参加したのかな」

――「早く復帰したい」っていう気持ちと、「あまり焦らないほうがいいな」という気持ちとは、どんな感じでしたか?
「あまり焦らない方がいいと、最初に思っていました。結局、ここで今度は筋肉や何かのケガをして、サッカーができなくなるのが一番もったいないというのはあったので。まずはちょっと落ち着いて、しっかり自分を整えていくのが最優先かなと感じていました」

――自分としてのゴールは、「その年の冬の選手権でAチームのユニフォームを着る」というようなところだったのかな?
「そうですね、全国高校サッカー選手権で、ピッチに立つ。これが当時の一番の目標でした」


            (インタビュー第2回 後半へ続く)


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