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「病が新たな目標を与えてくれた」フットゴルファー柴田晋太朗選手(インタビュー第1回 )

柴田晋太朗さんは、幼い頃からサッカーに打ち込み、世界で活躍するプレーヤーになることを目指していました。横浜Fマリノス・プライマリー、FC厚木DREAMSを経て、日大藤沢高校に入学。2年時(2016年)には神奈川県Uー17選抜の主将を務めるほどの選手になっていました。

しかしーー。その夏、100万人に1人という希少がんの骨肉腫が右上腕に発症していることが判明。抗がん剤治療や、右上腕骨を人工骨に置換する手術を受けました。

いったんはサッカーに復帰したものの、2017年8月に肺への転移が見つかります。その後、がん細胞を取り除く手術を2度受け、サッカーの第一線からは退きました。

そんななか、昨年(2019年)5月に新たなスポーツとの出会いがありました。サッカーボールを足で蹴ってカップインの打数を競う「フットゴルフ」です。

2020年4月30日に21歳の誕生日を迎える柴田さんは現在、Lakeland University Japan Campusに通って大学生活を送りながら、フットゴルフの日本代表入りを目指しています。

柴田さんは「病が新たな目標を与えてくれた」と言います。困難に負けず、常に前を向いて自分の人生を歩んでいく柴田さん。私は「柴田さんの生き方を伝えたい」と、取材を申し込みました。

柴田さんは「自分の経験が、誰かの励みになるなら」と快く引き受けてくれて、2020年3月に取材がスタートしました。今回は、3月におこなった第1回のインタビューのもようをそのまま公開します。

(インタビュー=スポーツライター 佐伯要/プレー写真=柴田晋太朗選手提供)

柴田晋太朗①撮影 川本真夢

            
――今日は第1回ということで、「骨肉腫」という病名を告げられた時の話を中心に聞ければ、と思っています。まず、高校2年の夏に「右肩が痛いな」と思い始めたそうですが、自分ではどんな感じだったんですか?
「病名を言われる2か月前くらいから、だんだん肩がちょっと重いなっていうのはあって。痛くはなかったです、最初は。全然肩が上がらないなっていう。マットレスとか、そういうかけ合わせのせいかなと思っていたんですけど、どんどん日が経つにつれて重みが痛みに変わっていく感じがありました。そこから1か月後くらいになって、本格的にズキズキとした痛みに変わっていったかなっていう感じですね」

――じゃあ、最初は「寝違えたかな?」というくらい?
「端的に言ったら、そうですね」

――それまでにもケガっていうのは何かしらあったと思いますけど、上半身をケガした経験は?
「僕自身、そもそもケガをあまりしなかったので、なんともないと思っていたんですけど。上半身なら、なおさら。肩の痛みとか、そういうのはまったくなかったです」

――じゃあ、最初の2か月間、だんだん痛くなるくらいまでは普通にプレーをしていた?
「そうですね。それにともなって、ただサッカーをして試合が終わって、普段のように『疲れたー』っていう感覚じゃなくて、変に疲れが抜けない、だるい重さみたいなのがあったんです。試合後も別に熱とかないのに……、そういうのがちょっとあった」

――「どこかおかしいんじゃないか」みたいな疑いはあったの? それとも単に外科的な痛みというか……。
「最初は、僕がよく行っていた鍼治療に通っていたんですけど、イマイチ効果が出なくて。いつもだったら、その治療を受けたら、次の日には絶対治るんですけど。でも、いつも治らないから、これは何かあるな、とは思っていましたけど」

――不安はあったの?
「いや、不安な気持ちはまったく」

――まったく?
「はい。まあ、本当に何だろうっていう感覚で」

――日に日に痛みが増していったっていうことで、そんななかでもU-17神奈川選抜として韓国遠征にも行ったんですよね?
「はい。そうです」

――その時に激痛っていうか、我慢できないくらいの痛みになった?
「ちょうど韓国遠征に行く1週間前くらいに、高校(日大藤沢高)の方で遠征があったんですけど、そのときからすでにちょっと『痛いな』って。『だるい』から『痛い』という風に変わり始めて。まあいいやと思って、その遠征の1週間後に韓国遠征に行きました。『痛み止めを持っていけばどうにかなる』っていう自分の気持ちと、『時間が経てばよくなるでしょ』という風に思って。韓国遠征に行ったら、本当に何をしても痛くて……。痛み止めを飲んでも痛いし、テーピングをガッて固く巻いてもらって、ちょっと痛みが和らぐかなって思ったんですけど、むしろ逆に痛くなっちゃって。テーピングをその場ですぐにはがして、『これのほうが楽だわ』と思ったりして。それで、ちょっと気になりましたね。痛さは韓国遠征がピークだった」

――それはどういう痛み? 
「もう内側からズキッ、ズキッて。言葉では表現できないんですけど、だんだんと、こうえぐられているような感じで」

――サッカーをしていなくても痛い?
「そうですね、サッカーが終わった後、まあ歩いている時はそこまでは気にしないんですけど、たまにこう、ふっと寄りかかったりとか、バスに乗って移動している時に変な体勢になっていたりすると、ちょっと響くな、ズキズキするなという」

――そんななかでも試合は出ていたの?
「フルで出ていましたね」

――プレー中の痛みは?  
「僕が病院に行こうと思ったのも、サッカーに集中できないくらい痛くて、さすがにまずいと思って、普通じゃないなって思ったんですよ。相手と接触して倒れてしまったときに、1回息が止まった感じがしていて、1分くらい倒れたままで、起き上がっても、ずーっとうずくまっていたんですけど。その1分後には自分のもとの位置に戻って、そのままプレーをしましたけど」

――サッカーに集中できないから、病院に行くしかないな、みたいな感じ?
「まあ一応、試合中は試合に集中してプレーをしているんですけど、試合が終わったとたんに『ああ、もう病院に行こうかな』と思いました」

――それまでに病院に行こうとか、検査しに行こうみたいなことはあまりなかったですか? 
「もう韓国遠征で死ぬほど痛かったんで、それで病院に行こうと思いました」

――それまで、病院は頭になかった? 
「放っておけば治るかなってくらいでした」

――最初は何科に? 整形外科?
「最初は地元の、小さい頃からお世話になっている整形外科にちょっと足を運んで、レントゲンを撮ってもらったんですけど。僕の病気だと、レントゲンには写らないんですね。僕が小さい頃からお世話になっているドクターは、そのときに病気を発見したというよりも、『ちょっと肩のところに何か異変というか、わからないものがあるから、これは1回MRIを撮ったほうがいい』みたいに言ってくださって。そこで『じゃあ行きます』と」

――MRIも撮れる、もうちょっと大きな病院に?
「はい。次の日か、次の次の日くらいに、えっと、どこだっけな、Jリーグの球団Vのドクターがそこにいらっしゃった。そこでレントゲンを撮ったり、いろいろしていたら、『もうウチでは診られないから』となって。ほかの病院へも行ったんですけど、そこで『T病院へ紹介状を出すから、今すぐ行ってくれ』って言われて、そこでその次の日に初めてT病院へ行って。実際にMRIを撮って、検査結果が出て、それを整形外科に持っていって確認してもらったんです」

――そのいくつかの病院は、ずっと一人で行ってたの?
「親が車で送り迎えをしてくれました」

――T病院から、最初の整形外科に?
「また最初に行ったところに戻された。そこで、T病院の結果を最初の整形外科の先生に渡して」

――そこはなんていう病院ですか?
「F整形外科」

――検査結果をそこへ、自分で持って行ったの?
「検査結果を渡して、見てもらうまで待って、いざ呼ばれて診察室へ入ったら、すごく深刻そうな顔をしていて……。『どうしたんですか?』って聞いたら、『今すぐもう動いてください』みたいな。『簡潔に言うと、腫瘍があります』みたいに言われて」

――それはどんな状況で?
「先生はコンピューターで画像を見終わっていて、たしか画面は真っ暗だった。『ここにこういうのがある』というような説明ではなくて、『大きい病院に行ってくれ』って言われて。『もっと専門的なところに行ってください』と。とりあえずはT病院へもう1回行って、そこで入院して治療するっていう話になった」

――F整形外科でそう言われたときは、一人だったの?
「はい。もう、向こうが『行ってくれ』って。『とりあえず行け』って。で、まあ、すごいヤバそうだなって。一応、親にはすぐ電話して『腫瘍が見つかった』っていう風に言いました。そしたら、『え、なに?』っていう感じ。母が『私が聞きに行くから』って、次の日にその整形外科に行ったら、院長さんから『お母さん、今すぐ動いて、大きいところに行ってください』という申し出があって」

――翌日に行ったのはお母さんと二人?
「いや、僕は(家で)待っていました。僕が最初に行って、次の日に母が一人で行った。それから一週間もしないうちにT病院に移って、入院して、一応生検(生検組織診断)まではしたのかな。それで『ほぼほぼ骨肉腫じゃないか』って出て。じゃあ、これから治療していこうみたいな話になったんですけど、そこで、母は『いや、この病院じゃ治療は無理』って思ったみたいで。ガンっていうのがわかったから、本当にそのプロフェッショナルなところにいかないとダメだと思ったらしくて。いろんな伝手をたどって、今のがん研有明病院の主治医にたどり着いて。話を持ち掛けたら、『診療時間外でもいいから、早く来てください』と言われて。それで、『このT病院を出て、治療をしたい』と」

――最初にF整形外科で『腫瘍がある』と言われたときは、どういう気持ちになった?
「えーっと、本当に率直に言うと、腫瘍という言葉を聞いたことがなかったから、『何言っているんだろう』って。でも、医者がどこか焦っているから、まあ、なんかあるんだろうな……という。楽観もしなければ、変に考えることもなく、『どうにかなるでしょ』という感じ」

――不安はなかった?
「何も不安も。腫瘍という言葉に『?』マークしかなかった」

――F整形外科からお母さんに電話で報告したとき、お母さんの様子は?
「『え?』みたいな感じ。母は腫瘍の意味はわかると思うんですけど、いきなり言われたもんだから、『どういう意味?』みたいな。『じゃあ、明日、私が聞きに行くわ』って」

――そのあと家に帰って、お母さんの顔を見て話をしたわけでしょ?
「母はその時は外出していて、家にいなくて、僕しか家にいなかったので。夜になって帰ってきたんですけど、僕はその前にたぶん寝ちゃっていて、その日は会っていないです」

――じゃあ、その次の日には?
「次の日は気付いたら、もう親は病院に行っていた」

――T病院で「骨肉腫じゃないか」って言われたときは、どんな気持ちになった?
「その時点では、僕は言われていないんです。最終的にたどり着いた、がん研有明病院まで『骨肉腫』という言葉を把握していなかった。だから、親に連れられて、がん研有明病院に着いたときは『?』マークだったんです。そこで初めて、病院が『がん研』っていう名前だから、『アレ? これ、なんだろう?』って。そこで6割くらい、理解して。ああ、じゃあ今からここでお世話になるんだ、そっかそっか……って、勝手に一人で思っていたんですけど」

――お母さんは、詳しいことを言えなかったのかな?
「がん研に着くまでは、100%悪性かどうかはわからなかったので、まだ完璧には言えないっていう風に思っていたみたいですけど」

――がん研に着いてから、最終的に「こうしよう」みたいな話になるまでの流れは?
「まず、がん研に朝早くに行って、確かいろいろ一からやったんですね、採血したり、レントゲン撮ったり、MRIも撮ったかな。1日かけていろいろ検査して……そこらへんは記憶があやふやなんですけど。夜になって、親たちといっしょに主治医から話を聞いて、そこで『ここに今すぐ入院が必要だ』みたいに言われて。そのときには詳しくは告げられなかったんですけど、『今すぐ入院が必要だ』とだけ。『今日明日中に』と言われて。たぶん、その医者の頭の中にはすでに抗がん剤治療があって、その3日後くらいには『やるよ』みたいな」

――その日の診療で「今すぐ入院して」っていうことで、「骨肉腫だ」と理解したわけ?
「いや、その日でもまだ。まだなんとなく自分の中では、良性に賭けていたっていう部分が何となくあったんですけど。その何日か後に診療に行って、生検が終わって結果が返ってきて、医者は『やっぱりね』って、『抗がん剤治療を始めよう』と」

――そこで「骨肉腫」ってハッキリ言われた?
「あまり覚えていない。最初は親が言われたのかな? わかんない。本当にこう、あれよあれよ……で進んでいって、なんかこう、話し合って『じゃあ何々します』というのはなかった。どんどんどんどんスピードが。もう1日も無駄にできないっていう病気なので、医者がどんどんどんどん進めていって。ようやく2、3回目くらいの治療があった後に、正式に『これは骨肉腫の悪性だよ』と教えてもらいました」

――お医者さんと、お父さんお母さんの間では、もうちょっと違う話があったのかな?
「どうなんですかね。僕もそこはあまり聞かなかったので。『まあ、いいや』くらいで」

――正式な病名とか、それがどういうものなのかっていうのは、自分でわからないと不安ではない?
「いやあ、別に。主治医っていうのは今の自分の病気を治すプロフェッショナルだから、プロフェッショナルが言うことに間違いはないからっていう思いがあって。どうこう言ったって変わるものじゃないからっていう思いもあったので、全部言うことを聞いて。ちゃんと治療が始まる前に面談みたいなものがあったんですけど、そこでも医者は病名をハッキリとは言っていないんですよ、おそらく。まあ、その時はもう『サッカーできるのか』っていうことしか僕の頭にはなかったので。だから、けっこう大事な話ばっかりだったと思うんですけど、右から左へどんどん流れちゃって……。でも、落ち着いてから医者と僕が1対1で話したときに、はじめて『骨肉腫の悪性だよ』という風に。面談とかもろもろのなかで、におわすことは多分言っていたと思うんですけど……」

――「サッカーできるのかな」って不安に思ったのは、どのタイミングで?
「がん研で『入院して』って言われたときですかね。そのときに『サッカーやめなければならないのかな』っていうのはなんとなくありました」

――そのときは、どういう気持ちだったんですか?
「そうですね。本当にサッカーができないなら、死んでもいいやという風に思っていたくらいなので。サッカーがなくなったら、何しようかな、生きている意味ないかなって。それくらいサッカーに懸けていましたし、サッカーが好きだったので」

――重いな……。サッカーがなければ、自分が自分じゃなくなるっていう。
「そうですね、まさにその通り。サッカーをとったら、何にもない。その時は勉強とかもしていないし、サッカーしかしていないんで。『サッカーを取っちゃったら、オレ、何が残るんだろう?』っていう」

――「サッカーをもう1回やるんだ」っていう気持ちと、「もうできないかもしれない」という気持ちは?
「そのときは、まあ半々でした。『入院して』って言われた時点では、医者は僕のことを知らないですし、『サッカーできるよ』とは言わなかったので。『今すぐ治療しよう』としか言わなかった。そこだけを取ってしまうと、治したらできるかもしれないし、治してもできないかもしれない。『どっちなんだろう?』みたいな。だから面談までは、こうモヤモヤしていて、サッカーができるのか、質問もしたかったんですけど」

――お医者さんに「サッカーできるんですか?」って聞いたの?
「最後の面談のときに、聞きました」

――それで、答えは?
「治したらできるよ、と」

――そこからの気持ちは?
「それまでは、『治らなかったり、できなかったりしたらどうしようかな』というあやふやな感じだったんですけど、そのとき初めて『できる』っていう言葉を聞いて、その瞬間に決意が固まって、『よし、オレはやるべきことがあるから、頑張って治療して、治療と治療の合間にできるトレーニングをして、常に自分を追い込んでやってやろう』と思いました。その面談の最後の最後で、そう思いました」

――サッカーのこともあるけど、病院に着いて「がん」という文字を見たり、「骨肉腫」っていう言葉を聞いたりしたとき、命への不安はなかったの? 怖さは?
「眼中になかったですね、病気っていう言葉は。オレはもう、サッカーができれば全然生きられると思って、聞いた瞬間に。もし『治ってもサッカーはできないかも』と言われたら、生きるとか死ぬということに対してしっかり考えたかもしれないですけど。『サッカーできる』って言われた瞬間に、そういうことを忘れて、『サッカーに戻れるなら、それに対して全力でやるしかないじゃん』って。『大丈夫でしょ』って頭がすぐ切り替わって。その面談の後はまったく生きるか死ぬかという問題は頭になかったですし、自分で生存率とかそういうのも、まったく調べなかったです」

――そうなんだ。
「みんな、生存率を調べるらしいんですね。実際に経験された方ともそういう話をしたけど、オレの中では、今までの歴史のトータルがその平均スコアになっているだけで、その数値は自分のものじゃないっていう。関係ない、そんなのオレには当てはまらないと思っていたんで」

――入院してから「治したらサッカーできるよ」って言われるまでの間も、自分が死んでしまうんじゃないかっていう不安みたいなのはなかった?
「はい。その時は重い病気だってわかっていなかったですし」

――ああ、そういうことか。「骨肉腫だ」とわかったのと「治したらサッカーできるよ」って言われるのは、ほぼ同じタイミングなのか。
「まあ、そうですね」

――その面談は、お医者さんと1対1?
「最初の面談は父、母、僕と医者の3対1でした」

――3対1の面談のとき、お父さん、お母さんの様子はどんな感じでしたか?
「僕が前に座っていて、後ろに二人。だから、見えてないです。僕はただ医者の顔を見ていて、『いつサッカーの質問ができるかな』とずっと考えていた。両親の表情とかはわかんないんですけど、母は積極的に質問していましたね。あまり詳しくは覚えていないですけど、
『それはどういうことですか?』みたいな。表情まではわからないですね」

――「治したらサッカーできるよ」って言われて、すぐ気持ちが切り替わった?
「そこから、正式に前向きになれました」

――前向き?
「いやあ、もう『THE前向き』ですね」

DSCN1488 切り取り(撮影 佐々木あさひ)

            
――最初に抗がん剤治療を受けた時のこと、覚えている?
「覚えていますよ」

――どんな感じだった?
「あれ、こんなもんかみたいな」

――こんなもん? 苦しかったりしなかったの?
「しないですね。病室に薬剤師が来て、こういう副作用があって、こういう思いになるみたいなことをすごくいろいろ並べられたんですけど、別にそんなこと聞いたって、オレがなるかはわからないでしょ。そんな悪いこと、オレには当てはまらないよって。もう、与えられた試練は乗り越えるしかないから。『来るものは拒まず、全部やってやるよ』みたいな感じだったので」

――抗がん剤治療っていうのは、具体的には?
「僕の場合は右手の、この血管に針を通して。針が、抗がん剤の袋につながるようになっているんですね。抗がん剤が通る細い管みたいなのがあって、それをなんかネジじゃないんですけど、プラスチックとプラスチックのものでしっかり締めてあって。それをポンプっていう機械があるので、そこにこう。スタートしたら、勝手にこう、一寸の狂いもなく流れるようなシステムです。あとはもう、薬が入ってくるのをこう見ている」

――座って?
「座っていてもいいし、寝ていてもいいし」

――どれくらいの時間がかかるの?
「薬によりけりなんですけど、んー、だいたい2、3時間かな」

――その2,3時間は、どんなことを考えているの?
「何も考えていないです」

――僕だったら、あれやこれや考えちゃうだろうな……。
「なんか、すごく『息苦しくなったりとかしたらすぐ言ってね』みたいな感じなので、『そんななの?』って感じで待っていました。でも、30分経っても1時間たっても余裕だなって」

――副作用で苦しんだりしたことは?
「そうですね。例えば戻すとか、信じられないくらい歩けなくなるとかっていうのはなかったです。抗がん剤を入れてから2、3時間で、1日にできる量は決まっていて、終わったらあとはデカい水みたいなやつを延々と点滴で流されるんですよ。なので、たまに夜とか空き時間みたいなときはそれをいったん外して、止めておけるんですけど、暇だから、走りに行ったりしていました」

――え、走ってたの? それって大丈夫なの? 医者は「やめとけ」ってならないの?
「みんな、怖がっていましたよ。怖がっていても、オレのことだし、いいやって」

――走ったのは、病院の周り?
「最初は外へ走りに行っていたんですけど、病院の外へ出るときは何か書かないといけないらしくて、それを知らなかったから勝手に出ていったら、注意されて。5階に庭園があるんですけど、そこに切り替えました。そこだったら病棟とつながっているので。そこでひたすら走っていました。一人で20分間走みたいなのをやっていました」

――びっくりしていなかった? 周りの人、病院の人。
「『何してるんだ、あいつ?』って。窓際から庭園が全部見えるんですよ、上から。5階から上の階の窓際から、のぞいたらそこが見えるようになっているんですけど、おそらく上の階の人たちは『何をしているんだろう』みたいな」

――そこに入院している人たちは、たぶん、それこそサッカーうんぬんじゃなくて、生きるか死ぬかということで悩んでいる人たちなわけでしょう?
「そうだと思います」

――異質な感じだったんじゃない?
「本当に『何しているんだろう?』っていう風に思われていたと思いますよ。すごい元気な兄ちゃんがいるな、みたいな」

――抗がん剤治療は9月から始まって……
「そうですね。9,10,11月で計3回かな。12月に手術(人工骨置換手術)をしているので、3回です、たぶん」

――抗がん剤がアナフィラキシーショックで使えなかった、と聞いたけど。
「最初は9月に1回で、それから1か月空いて、10月かな? 僕、修学旅行に行ったんですよ」

――修学旅行?
「そう。カナダに」

――そういうもんなの? 入院してずっとベッドにいるのではなくて?
「病院によっては、やっぱり12か月間、ずっと入院っていう厳しいところもあるんですけど、がん研ではそういうのはなくて、数値がよかったら『一時退院していいよ、また3週間後とかに戻ってきて』とか」

――一時退院と、カナダへの修学旅行ではだいぶ差があると思うだけど……。お医者さんから何も言われなかった? 
「『じゃあ、お土産買ってきて』『ちゃんとお土産買ってくるので、行ってきますね』って言ったら、『わかったよ、何かあったら連絡して』みたいな」

――それは「コイツは何言っても聞かないから」みたいな感じ? それとも心配はないってこと?
「いや、どうなんですかね? たぶん、本当に医者がダメって思ったら、行かせなかったと思う。だから、彼の中では許容範囲だったんじゃないかな」

――じゃあ、逆に「ダメ」って言われていたことは何?
「えっと、血小板の数値が、僕は一時期、抗がん剤の内面的な副作用で下がっちゃいけない数字まで一気に行っちゃったんですよ。それって、普段こういう風にしていても脳の血管がプチーンと切れちゃったりする可能性があるらしくて。例えばちょっと転んで擦りむいただけで、出血が止まらなくなる。そういう数値になっているときに、サッカーとか破天荒なことはしないでくれという風に言われました」

――ということは、その数値じゃないときはサッカーをしていたの?
「ボールは蹴っていました。一時退院しているとき、公園に友達を呼んで。受験生もいたんですけど、『集合!』って引っ張り出して。あとは病院でも、ちょっと身体の数値の上がりを待っているときに、『下へ行って、ボールを蹴ってきます』って行って、満足したら帰ってきた。防災場(災害時医療支援用地)があって、そこに芝があったので」

――じゃあ、まったくボールを蹴らなかった期間は、どれくらいあったの?
「最初の手術が12月にあったんですけど、その時から1か月ちょっとはボールを蹴らなかったです。『これでボールを蹴ったり、転んだりしたら(人工骨が)マジで外れるから、本当にやめてくれ』って言われたので、さすがに『やめておきます』って。そのくらいかな、あとは何日間とかのレベルです」

――抗がん剤治療が始まって12月に手術するまでの間でいろいろ制限されたのは、さっき言っていた血小板の数値が下がったときくらい?
「その血小板の数値ってやつも、本当に治療の終わりくらいの話なので。最初のほうはやっぱり体が強かったので、副作用で数値も落ちるけど、すぐ上がって、そんなに問題なかった。だから、本当にやりたい放題やっていましたね。で、修学旅行から帰ってきた次の日に抗がん剤治療っていう設定で動いていたんですよ。そこでたぶん免疫が弱っていてアナフィラキシーショックになっちゃって、2つ目の薬で。その薬が使えないとなって、最初から使っている薬でやるという、そういう流れなんですよ。でも、修学旅行に行ってよかったと思いますし、あの薬でなくてよかったなと今は思います」

――修学旅行にはどういう気持ちで?
「それはもう、みんなと一緒に、その期間に修学旅行があるから、『いや、オレも行きますよ』という感じ。一応、生徒ですよ、という」

――周りは?
「『お前、修学旅行だけ来るのかよ?』みたいな」

――あー、学校には全然行っていないから。
「その頃は授業にはあまり行っていないですね。一応、『家で安静にしていて』って言われるので、『そう言われると、行けないな』と」

――でも、サッカーはやる?
「やっていました。学校にも行けるんですけど」

――行かなくていい大義名分があるから、行かないって?
「そうです。そのくらいです。行こうと思えば全然、いつでも行けました、正直」

DSCN1497 修正

           
――中村俊輔さんがお見舞いに来てくれたことがあったそうですね。
「僕の恩師に当たる人がこう、なんでだったかな……確か、その時の俊さんのマネージャーと知り合いだったらしくて。で、その恩師の方がマネージャーに繋いでくれて、俊さんに話が行って、『行くよ』と言ってくださって。で、オレ、俊さんが来るのを知らなかったんですよ、その当日。しかも、それはアナフィラキシーショックになった次の日とかだったのかな。で、病室にいたときに母から『今日、誰か来るらしいよ』みたいなことを聞いて。で、いざ時間が経って、こう俊さんが『ういーっす』って入ってきて。『え?』みたいな。『俊さん? おおーっ、やばい』ってなって」

――それが初対面?
「いえ、一応、会ってはいるんですよね。僕がマリノス(のプライマリー)にいる頃に、俊さんがちょうど日本に帰ってきて、マリノスに戻ってきた時期だったので。たまにグラウンドでは会っていたりしたんですけど。俊さんのお子さんとも、みんなでワイワイしているときに一緒に練習する――みたいなのもあったし。会ってはいるんです。たぶん、彼もいっぱい見ている中の一人だ、みたいな感覚はちょっとはあったと思うんですよね、きっと。でも、ちゃんと面と向かってお話をするのはもちろん初めてだったので、オレ、もう震えが止まらなくて……。憧れの人に会うって、こういうことなんだなって。人に会って震えたり感動したりしたっていうのは、それまでなかったので。『人の持っている力って、すごいな』って。そこで『自分も俊さんのように、人の心を動かせる人間になりたいな』というような思いがちゃんと芽生えました」

――どれくらいの時間、いっしょに過ごしたの?
「もう、3時間くらい。俊さんの思い出話みたいなこととか、所属しているマリノスの今の状況みたいなこととか、いろんなことをすごく話してくださって」

――柴田君から質問したことは?
「『なんでそんなにフリーキックうまいんですか?』って。サッカーをやっている以上、俊さんを見たら、まずその質問だろうみたいなのがあって。『ボールを蹴る場所は、オレはここで蹴っているよ」っていう話だったり』

――病室にボールがあったの?
「いや、そのときはたまたま、なかったです。靴を脱いで足を出して、『ここで蹴っている』っていう感じでやってくれた。あとは、僕は日大藤沢ではあまり試合に出られていないというか、チーム外の活動では結果が出ていたんですけど、チーム内では認められないみたいなのがあって。そういう思いを話したら、『いやあ、わかるわかる』って。『オレもそういう時期があったわ』みたいな。『ま、でもな』みたいな話をしてくれて。俊さんでもこう思っているんだな、と」

――その「でもな」の先は?
「やっぱ、その環境で自分が気付くことをしないとダメだな、みたいな。例えば、監督が求めているプレーであったり、チームのスタイルだったりに自分が合わせるっていう努力をしないと、見捨てられるかなということ。俊さんはもちろん上手いですし、試合に出ていたのに3年になって出場機会が少し減った時、俊さんがその状況に対して『自分をうまくコントロールできなかった』っていう、俊さんでもそういう経験をするんだなっていう。そういう過去のちょっとした経験を聞いて、『ああ、なんか自分もやっぱ、考えを改めていかないと、トップアスリートにはなれないんだな』って」

――それまでは、どちらかというと自分のスタイルを貫く感じだった?
「そうですね。自分がひたすらうまくなって、周りよりもうまくなって、試合に出るっていう。それが自分でも、こうなんていうか、スッキリするっていうか、『それが俺のスタイルだ』みたいな。実力で認めさせる、みたいな」

――周りがオレに合わせろ、と。
「まあ、そんな感じですね」

――それが変わったんだ。なるほど、そのサプライズのお見舞いは、入院していたときだったんだよね?
「そのときはいつもと同じで、2週間弱くらいの入院だったかな。抗がん剤治療の時はスケジュールが決まっているんです。1日目に水をガーッと体に流して。で、1日3時間の抗がん剤治療をしてから、また水を体に流すのが1セットで、それを2日間か3日間。俊さんが来てくれた日は、修学旅行から帰ってきて、翌々日だったんですよね。修学旅行から帰ってきた次の日に、さっき言ったアナフィラキシーショックになって、『これやばい』ってなって。で、その次の日に抗がん剤を違う形で入れるってなって。俊さんが来てくれた時は、すでにその治療がスタートしていたんですね。治療を始めたら、またアナフィラキシーショックみたいなのが出始めたみたいだって言われてたんです。そのタイミングで、ちょうど俊さんが、こう入ってきた。そうしたら、その症状がスーッと消えた」

――えーっ、そんなことあるの?
「なんか、オレは気付かなかったんですけど、まわりは『(肌が)すごい真っ赤だったけど、俊さんが来た瞬間にすごいきれいになったよ』って」

――不思議だね。
「人間の力って、本当にすごいな」

――じゃあ、抗がん剤の管がつながっている状態のまま、俊さんと話したの?
「そうですね。だから、写真も繋がれっぱなしのままだった」

――来てくれるってわかっていたら、もっといろいろ準備したのにね。
「そうですね、親は知らされているから、準備していたんですよ、いろいろ。家にあった俊さんの本だったり、いろいろなDVDだったり、もう全部持ってきて。『え?なんで? 何してるの?』って聞いたら『あんた、俊さん好きだから、いいじゃん』って。で、ちょうど俊さんの本を読んでいたら、なぜか、本人が来ちゃって。『え?なんで?』ってなった」

――あこがれっていうか、プレースタイルも似ているっていうか、目指す方向が同じような人なのかな?
「はい。プレースタイルを似せに行っていましたからね。昔からレフティーっていう同じ立場として、やっぱ、目指すべき存在だったので。それでドリブルとかよりも、どうしてもキックの話を聞きたくなるっていう」

――なるほど。
「真っ先に、セルティック時代にマンU戦でフリーキックを決めた時の話を持ち掛けました。そういう話を俊さんとして……、あのとき、どういう風に話を聞いていて、俊さんがどういう風に座っていて、どういう感じで話したかっていうのを、今でも全部鮮明に覚えています」

――ベッドに座って?
「僕は起き上げ式のベッドの上で、寄りかかって座っていて、で、ベッドのすぐ横が窓になっているんですけど、そのフレームみたいなところに俊さんが腰かけて話していました。周りのみんなはこう立っているっていう」

――スポーツ選手のそういう力、人の力ってすごいよね。
「だから、オレも治して、偉大な選手になって、こういう子どもたちだったり、こういう子どもたちじゃなくても、なんかこう、回りたいなって」

――自分がしてもらったことを、次の誰かへ渡す?
「そういう人間になって、恩返ししようという風に。そこで、人ができないことでも、無茶なことでも、『やってやろう』っていう思いになりました」

――中村俊輔さんから励ましの言葉とか、何か特別なことは?
「まあ、いろいろ。もう、オレにとっては、そこにいてくれることが最高で。もちろん、その時はマリノスのユニフォームを持ってきてくれていて、サイン書いて、プレゼントしてくれたし。自分の持ち物をあげると言ってくれて、それがたぶん僕にとっての励ましになる。最後に『治ったらサッカーしようぜ』みたいなことを言ってくださって、こう、ずっと頑張っていけるようになりました」

――それで、次は自分がそういう存在になれるように、と。
「まあ、自然にそう思いますよね。やっぱり恩をもらったら、その人にも返すけど、自分もこういう状況だし、いろんな人に伝えていきたいなって。なんだろう、シンプルに『あこがれの存在がこういうことを与えてくれたから、僕もこういう風になりたいな』って」

――もしそれがなかったら、講演をしようとか、こういう話をしようということにはあまり繋がらなかったかもしれない?
「んー、どうですかね。そこは難しいんですけど。でも、やっぱり、すべてにおいてそのときから頑張る理由ができました。やっぱり俊さんって、あれだけの結果を出して歴史に名を刻んできた人だからこそ、一つひとつの言葉に重みがあるし、説得力もある。言っていることは間違いじゃないって断定できる。何も成し遂げていなくても、ペチャクチャ言うことは可能なんですよね。でも、それって重くもなんともない。経験してきていること、感じていることがほかの人とはまったく違うんですよね、スーパースターっていうのは。だから、僕も自分がそういうスーパースターみたいになって、次世代の子たちや人に伝えたいなという気持ちがありますね。そうするためには、自分が有名になって、とにかく有名になって、いろいろ歴史に名を残すようなことをやっていかないといけないって思ったんですよね。病気になったら普通はできないことをオレはやりたい。病人であろうが何であろうが、人がやれないことにもチャレンジしたいと思いますし、みんなが普通にやっていることにもチャレンジしたい。それが結果的にいろいろな人の希望であったり、夢につながるようなことを。俊さんにそうやって夢や希望を与えてもらったから、オレもそうなりたいな、と。そういう人間になりたい。はじめてそこで、単に『プロサッカー選手になりたい』っていうだけではなくて、『人としてこうありたいな』って思った。『誰かの憧れになるのって、こういう人なんだな』って、俊さんに会って思いました」

――その日付は覚えている? 2016年11月っていうのは新聞記事で読んだけど。
「2016年の11月1日かな。1日か2日です。ちょうど学校が体育祭の日だったんですけど、休んで抗がん剤治療をやっていたんですよ。俊さんが体育祭の日に来てくれたのは覚えているので」

――わかりました。じゃあ、今日はこの辺で。今日の話で、これからやろうとしていることの理由が、すごく伝わってきた。新聞記事で「俊輔さんがお見舞いにきてくれて……」と読んで知っていたけど、その重みというか意味というか。
「言葉じゃ収まらないです。その思いであったり、その雰囲気であったり。本当に、人の心の本当に内側から感じたものは、本気で」

柴田晋太朗選手 プレー写真1

                
――さっき、俊さんに会って「震えてた」って言ってたね。
「いや、もう本当に『え?』ですよ。『え?まじか』って。『なんでいるんですか?』って。オレはなんかこう、すごくはしゃいだりとか、そういうのはしないタイプで、内心ではもうひっちゃかめっちゃかになっているんですけど……。震えているのが自分でわかりました。止まんないんですもん。話しているうちに、こう『震えが止まんない』みたいな。『すげえ』っていう。なんか重みが伝わってきて、ずっと『すげえ』って思いながらしゃべっていたので」

――今日はいい話がきけて、よかった。ありがとうございました。そういえば、昨日までフットゴルフに行ってたんだよね? 
「練習です。来週、大会がある場所で練習してきて。まあ、前日練習みたいなものなんですけど、あまりできないんですよね。場所によってなんですけど、日本ではあまりない」

――1週間前に。
「そこのゴルフ場、今はクローズ期間みたいなんです。でも、わざわざフットゴルフの大会のためにあけてくれたんです。かなりの選手が練習したいっていう要望を出して、本当にやっとの思いで昨日一日だけ、コンペという形で承諾が下りて、行ったんですけど」

――1月の大会で、3位になって次の日がダメで……ということがあったじゃない? あの経験から「安定しないといけない」って、「気持ちが切れちゃったから投げだしそうになって」みたいな感じで書いてあったね。
「投げだしましたね。自分の性格上、完璧にいかないともうイヤなんですよ。だいたいそのゴルフ場によって、優勝者のスコアっていうのがあるんですよ。それが、まずはそれを超えない限り、自分には優勝はないっていう基準になります。前日に3位になって、なおさら攻めたいなって。普通にプレーしていてもそこまでひどくならないと思っていたので、攻めてみようと思って、ちょっとこう、初心の時のスタイルに戻って攻めのゴルフをやってみたけど、失敗して。自分で外して。9ホール目で0に戻れるか、+1とか2で戻っちゃうのかというところで、3位になったときは耐えたんですけど、その二日目は+1か+2で行っちゃって、戻せなくて。それで、もう、より攻めていかないとスコアを巻けないって思って、10ホール目で蹴って外して、そこからもう今日はダメだ……という風になっていって」

――ゴルフって、メンタルのスポーツだって言うけど、フットゴルフもそう?
「同じですよ。マネジメントもそうですし。1月から比べると、マネジメントっていうのはもちろんちょっとずつ成長していっていると思いますし、パットも入るようになってきてはいるんで。昨日は7アンダーくらいで回ったのかな。でも、優勝ラインは余裕の10アンダー越え。前回の優勝者はそこで14アンダーとかで回っていて、昨日の練習でもトップは11アンダーが3人。だから10アンダーは越えないと5位にも入れないという」

――ポイントでワールドカップの出場権が決まるんだよね? この間3位になったというのはプラスになったんだ。
「上から順に獲得ポイントがあって、3位取って、ちょっとポイントは入って。で、まあ、それ以外も10位以内には入るようになってきたんで。7番目までがワールドカップのメンバーなんです。16試合かな? 16試合やるうち8試合の良かったスコアを引っ張って、それを8で割るので。だから、フットゴルファーの何人かは、『この試合を落としても次があるから、ここは自分の不得意な場所だから、伸ばせなくても問題ないから』ということで、次に備えてマネジメントのイメージを持ったり、練習するという意味で大会に出ている人もいます。ただ、オレにはまだその余裕がないから、取れるところで落としたくないっていうのはあります。そんなこと言っているうちに、どんどんなくなっていっちゃう。自分を追い込んでやるスタイルですね。でも、さすがにあのとき3位を取っちゃったのがいけなかったんですかね。次の日も危機感をもってやったんですけど、3位を取っちゃったっていう、ちょっとどこかで気持ちが緩んでいて、『今日の試合は』という風に思っちゃったんですね、きっと、自分の中で」

――16分の8とすると、うまく捨てるものもないと、ということだよね。捨て試合というか。ある意味実験だったり、試しだったり、調整みたいな。
「やっぱり、経験のあるフットゴルファーはそういうのがあるらしいんですけど」

――まだフットゴルフを始めて8か月だっけ?
「10か月くらいですかね」

――今、いろいろなスポーツイベントが延期や中止が決まっているけど、ワールドカップは予定通りありそうなの?
「うーん、あったとしても、外国からは人が来られないかもしれない。ゴルフ場なので、すごく開けてはいるし、観客もいないし、平気かなとは思うんですけど、一カ所に人が集まるのは良くないかな。オリンピックが中止や延期になったら、『何でフットゴルフはあるの』って話じゃないですか」

――でも、「ある」という前提で、試合を積んでいかないといけないわけだよね?
「はい。あってもなくても、もし延期になって、『来年のワールドカップのメンバーがこの年のスコアで決まりますよ』という風になっちゃった場合に、もし入っていなかったら最悪じゃないですか。だから、まあ一応、目の前のことには全力で、とりあえずやるしかない。ワールドカップがあろうがなかろうが、全力でやるしかないなっていう感じです」

(この取材後の3月28日になって、『FIFGフットゴルフワールドカップ日本2020』は2021年まで延期することが決まった)


※インタビュー写真撮影=佐々木あさひ、川本真夢





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