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「病が新たな目標を与えてくれた」フットゴルファー柴田晋太朗選手(インタビュー第2回 後半)

フットゴルファー・柴田晋太朗選手は高校2年生だった2016年の夏に骨肉腫が右上腕に発症していることが判明。2016年12月には右上腕骨を人工骨に置換する手術を受けました。

そこから「全国高校サッカー選手権で、ピッチに立つ」ことを目標に、いったんは復帰してピッチに立ちました。ところが――。

Zoomを利用しておこなったインタビューの第2回の後半では、2017年9月10日の「復帰試合」を中心にうかがいました。

           (聞き手=スポーツライター 佐伯 要)

20200515柴田晋太朗選手取材第2回録画_Moment

       (左:柴田晋太朗選手 右:佐伯要)

サッカーへの復帰

――練習試合に出はじめたのは8月中?
「そうですね……はい、たぶん、それぐらい。復帰試合(9月10日)の前に練習試合に出ているので。練習に参加し始めて、その数週間後ぐらいには、ちょっとずつ試合に出ていたのかな」

――試合に出始めたときはどんな気持ちですか? 練習と試合では、ステップがひとつ先へ進んだって感じなのかな?
「『ああ、久々の試合だなあ』みたいな。あまり特別な感情は抱き過ぎずというか。『練習試合か』『普段通りやろうかな』とか、『どれぐらいできるのかな』と思いながら、ちょっとワクワクしたぐらいの程度で挑みました」

――9月10日、いわゆる「復帰試合」は湘南高C戦(日大藤沢高グラウンド)。
「そうですね。神奈川県の4部リーグの公式戦です。当時、日大藤沢高のAチームはK1リーグにいて、BチームがK2にいました。K3もあるんですけど、Cチームはチーム登録をしたばかりだったので、K4からスタートという形になっていて」

――この試合には先発でフル出場するわけですけど、この試合で、あの貰ったスパイクを初めて使ったんですか?
「そうですね、そのときに初めて試合で履きました」

――試合に出るのが決まったときの気持ちからうかがえますか? 出場はどれくらい前に決まったのかな。
「だいたい練習の中で、先発組とそれ以外に分かれて練習を重ねて、試合の前日には『ほぼそのメンバーで決まる』っていうのがあるので、なんとなくですけど、前日にはわかっていた部分もあります。でも、100%信用できるものでもなかったですし……。その前からの練習も自分なりに全力でやって、まわりに引けをとることなくプレーできていたので、もし出たら出たで活躍できるとは思っていました。当日にメンバーが発表されるんですが、背番号と名前を呼ばれる順番で、先発出場かどうかがだいたいわかるんです。それで僕が11番目以内に入ったので、まわりは『おあ、すげえ』『サプライズだ』みたいな雰囲気になったのは覚えています」

――背番号は9番だっけ?
「9番です。名前を呼ばれて、『はい』って返事をして、『よし、やってやるか』みたいにそこからスイッチが入って。自分のモード、ゾーンっていうかに完全に入って……っていう流れでしたね」

――試合に出る前に、もらったスパイクを履いたときはどんな気持ちでしたか?
「いや、もうホントに今、自分が生きている理由っていうか、今まで自分がお世話になった人たちや感謝している人たちに『絶対に恩返しする』という気持ちを込めて紐を結んで、試合に向かいました」

――実際に試合が始まって、ピッチに自分がいることを、どう捉えていました? キックオフの瞬間とか。
「笛がなったときにはもう、あまりいろんなことを考え過ぎずに、結果を残すという、ただそれだけを考えていたかなあ。でも、やっぱり、笛が吹かれる前にスタンドを見て、K4とかそもそもリーグ戦でもそんなに埋まらないスタンドが、ほぼほぼきれいに埋まっていたので、『わあ、すげえ』と思って。『こんなに応援してくれているんだなあ』みたいな。こんなに人が応援して期待しているなら、それに恩返しするしかないな、と。『絶対に結果を残してやろう』みたいな感じで、自分で心を整えて、『ピー』って笛が鳴った」

――試合前にスタンドに挨拶するときにスタンドを見て「いっぱいいるなあ」って?
「そのときにもわかりますし、僕は右サイドで先発だったので、キックオフの方(センターサークル)を見るとスタンドも見える位置だったので、キックオフも見ながら、スタンドも見えるっていう。それが自分の中でビビッてきました」

――中学のクラブ(FC厚木ドリームズ)や、6月のインターハイ神奈川予選の決勝でも対戦した東海大相模高の人たちもきていたそうですね(2対1で東海大相模高が勝利。インターハイ全国大会には東海大相模高、日大藤沢高の2チームが出場)。
「そうなんです。東海大相模高のサッカー部の同学年の人たちが来てくれました。修学旅行の日程と重なっていたそうなんですけど、日程が前・後半の2組に分かれていて、後半組の部員とマネジャーが横断幕を掲げて、来てくれました。日大藤沢高と東海大相模高はライバル関係にあって、その彼らが応援しに来てくれるっていう……、これはもう感動的なストーリーができあがっちゃって」

――それで「ゴールを決めないわけにいかない」みたいな?
「いや、ほんとにヤバいっすよ。何もなしでは帰れない(笑)。結果を残さないと、マジで試合終われないっていう」



復帰試合で2ゴール

――そんな中で前半35分にゴール決めた。すごいことだね。
「どうなんですかね、まあ、みんなにはそう言ってもらえるんですけど。一選手としてプレーしていた部分もありますし、特別な思いはあると言いつつ、結果を残さないといけない世界なので、そこは当たり前にやらないといけないと思っていたので。でも、それがやっぱり、ああいうホントにきれいなゴールで幕を開けたので、それは良かったのかなと思います」


復帰試合前半35分のゴール
https://twitter.com/shintaro1089/status/1250755993325039616?s=20


――そのゴールを、ボールを受けたときから振り返ってもらえますか。
「はい。中盤の選手が左からだんだん中に入ってきて、右足のアウトサイドでカーブがかかったパスがきた。僕はペナルティエリアの外、やや右よりでそれを受けました。日大藤沢高のグラウンドの芝は、ボールと芝がガッと摩擦でくっつくみたいな感覚なので、濡れていないと、何か引っかかる感じがするんです。回転がかかったボールがスムーズに転がってこない。ボールを止める際も、こう……右足かな? 右足で止めて、落とすんですけど、そういうボールなので、弾んじゃうんですよね。一発できれいに自分が一番置きたいところには置けなかった。トラップして、跳ねた瞬間にもう一度左足で、今度は自分がシュートを打てるところにすぐ置き直して。歩幅っていうか、シュートの振り幅がとれるくらいのところに置けたんですよね。それで、左足でシュートを打った。トラップする前に、ちょっとゴールは見えていました。僕はシュートを打つときは全部感覚なので、『だいたいここら辺にゴールがあるから、ここらへんに打てばこうなる』みたいな流れがあって、止めて、蹴った瞬間にはボールしか見てなかったんですよ。あのときは、いいところにボールを置き直したといっても、ボールがちょっと浮いちゃっていたんですよね。でも、今もまだ鮮明に覚えているんですけど、一瞬の判断で、ボールが浮いた瞬間に力まず、軌道に乗せてあげるようなイメージで蹴った。リラックスして蹴れば絶対にきれいに入ると思って、身体もその通りに動いたんですよね。それで、壁というか目の前にいたディフェンダーの頭を越えて、そこからきれいに落ちていって、キーパーも越えて、ゴールの左上に入った……みたいな感じでした。瞬時の判断だけどイメージ通り、みたいな」

――ずいぶん冷静にプレイできた感じだね。
「なんか、自分の中で整っていたなっていう。今でもこうやって振り返れるので、打つ瞬間は相当落ち着いていたんじゃないかな」

――なるほど。ゴールネットを揺らした後はどういう気持ちでした?
「いや、もう『うわ、入っちゃった』ですよ。イメージ通りになったと思いつつも、あんなにきれいに、うまくいくとは思っていないから。『あ、入っちゃった』っていう、ほんとにそんな感じですよ。しかも『あ、入っちゃった』って声に出しちゃったと思う。メチャクチャ喜んだっていうよりも、半分驚きぐらいの感覚だったかな」

――映像では、そのあとの2点目のほうが喜んでいたようにも見えるけど?
「いや、あれは喜んでいたというよりも……。1点目があんな感じで入っちゃったんで、自分で驚いているから、スタンドの方に行って『うぇーい』って喜んだり、監督の方に走って行くっていうのがなかったんですよ。1点目が入って、みんなで自陣に戻っていくときに、『あ、やべえ、やり忘れた』と思って。でも、『今からじゃもう遅いや』と思って。2点目は、1点目で忘れたことをやり直した、取り返したって感じです。普段からゴールを決めてもそんなに喜ばないタイプなんで」


復帰試合前半36分のゴール(2点目)
https://twitter.com/shintaro1089/status/1251103293801037824?s=20


――2点目は、右隅に決めた。1点目の1分後ぐらいなんだよね? 
「ホントに1分後くらい。直後でした。向こうからスタートしてボールを回されたけど、味方が奪ってカウンターで進んできた。左サイドから、ペナルティアークあたりにいた自分のところにボールがきました。それを一度自分の足元に止めてから、あえて左にずらしてシュートを打ちました。そうすることでキーパーのタイミングもずらせますし、ディフェンダーも反応できなかったと思うんですよ。案の定、キーパーの反応は遅れていました」

――その後、シュートの勢いで転んで、すぐに立ち上がって、応援席の方に走っていった。そのときは?
「あ、もう『行かないと』っていう感じ」

――ゴールパフォーマンスはあまりやったことがないのに、やったということ?
「やったことないんですよ、ホントに。サッカー選手って膝で滑ったり、バック転をしたり、おもしろいことをしたりとセレブレーションをするんですけど、僕は決めたらそのまま自陣に戻るっていうスタイルだったので。『今日くらい、いいかな』っていう。復活したし、『ゴール決めたよ』ってみんなに伝えたかったので、やってみたんですけど……。正直、やらなくてもよかったかなって思っているんですけど、今は」

――映像では、スタンドの方に走って行って、ジャンプしながら右手を上げようとしたけど、上がってなったね。
「上げようと思ったけど、『うーん、止まった』みたいな。そのときくらいは上がるかなと思って、やろうと思ったんですけど。でも、動画を見直すと、ちょっと恥ずかしめのガッツポーズみたいに納まっていた。自分の中では、すごくダサい風に終わったんだなって思っていたんですよ。でも、まあまあ様にはなっていたんで。なんか中途半端だなっていう気もしつつ」

――そのときに見えた風景、スタンドで応援してくれている仲間の喜びを見たときの気持ちは?
「それはもう、前の方は身を乗り出して喜んでくれているし、後ろの方でもドンチャン騒ぎをしているくらいに喜んでくれていたし、いろんな人が拍手喝采で喜んでくれていたので、『よかったなあ、ゴール決めてよかったなあ』って思いました」

――試合が始まったあたりの「結果を出さなきゃ」というところからいうと、ホッとした部分もあった? 
「まあ、ホッとした、自分の任務というか責務を果たしたっていう部分はありました。それと同時に『2点目取ったから、ハットトリックも目指すか』と気持ちは切り替わりました。なので、プレーもそこまで集中力が切れることなく最後までやれたのかなって思います」

――試合後にスタンドに向けて挨拶したとき、みんなが『栄光の架橋』を歌ってくれた。
「そうですね。日藤では、だいたいケガとか何かアクシデントがあった人の応援歌が『栄光の架橋』の替え歌になるんですけど、この代は僕がそれを受け継いで、『栄光の架け橋』が自分の応援歌になったので、試合終わったあとにみんなが歌ってくれました」

――歌詞は?
「♫いくつもの日々を越えて たどり着いた今がある 晋太郎、柴田 ゴールを奪えばいい 日藤のファンタジスタ」


言えなかった事実

――スタンドへの挨拶では何を言ったの?
「そこはあまり覚えていないんですよね。『今日はありがとうございました』くらいは言った気がします。みんなと同じ列に並んでいたんですよ。そこでマイクを渡されて『今日はありがとうございました』みたいな形で。本当だったら、そこで『自分はまたこれから闘病していかなきゃいけないんです』って言おうとしていたんですけど、みんなが歌っちゃうもんだから……。メンバーもちょっと列から下がって、オレだけ前に出ているような状況を作ってくれて、華やかな『おめでとうロード』を作ってくれたので、真実のことは言えず……。その場に感動というか、感動というよりも淋しさっていうか悲しさ、『また闘病しなきゃいけない』という現実と向き合わなきゃいけないと考えたときに、ああいう風になってしまった」

――実は、復帰試合の前に、定期健診で肺に転移していることがわかっていたんだよね?
「はい。そのことは医師と僕、家族以外では、監督だけにしか伝えていませんでした。肺への転移がわかったとき、医師から『復帰試合をやめて治療に専念するか、復帰試合も治療もするか、どっちかにしてくれ』と言われました。『どっちもやります』と言って、治療もしたし試合にも出て。復帰試合が終わった後に自分からみんなに『もう一度、治療しなきゃいけない』と伝えようと、監督にはその場を作ってもらっていたんですけど。みんなは……勘違いっていう言い方は違うと思うんですけど……」

――知らないから、当然だよね。
「そう、そう、そう。知らないから、食い違いがあるというか。自分の思っていることと、みんなが思っていることが違うという」

――とても言いだせなかった感じもあるっていうことかな?
「そうですね。ホントのことを言えないまま終わって……」

――挨拶して『栄光の架橋』の替え歌が聴いたときは、泣いた? 
「はい。『ごめんなさい』って感じですよね、簡単に言うと。自分はもう一度闘病しなきゃいけないっていうことに対して、なんだろう、自分の情けなさというか、せっかくみんながここまでしてくれているのに、もう一度治療しなきゃいけないんだって、自分に問いただすみたいな感じですかね。みんなは喜んでいるけど、オレはまたこれから闘わなきゃいけないっていう、その思いがこう、変に噛み合っちゃって」

――その涙は、みんなからすると復帰の喜びの涙に見えるってことだよね?
「その当時は全員、そう思っています、多分。ホントに感動ストーリーみたいになっていたんですよ。でも、ふたを開けてみたら、そういうことなんです……みたいな」

20200515柴田晋太朗選手取材第2回録画_Moment6

――そうか、そうか。この肺への転移が判明したのは、いつ頃? 復帰試合が9月10日で、そのどれぐらい前にわかったの?
「9月の頭ですね」

――「試合に出るのはやめておけ」と反対はされなかった?
「どうなんでしょうね。僕の知らないところではあったのかもしれないですけど。例えばオレの身体を気遣ってくれている祖父とか誰かしらは止めてはいるんだろうけど、医師も両親も止めなかったし、なにより僕が『やる』って言ったので。そこは自分の意思で」

――そのことを監督にだけ話していて……っていうと、佐藤監督との関係性を振り返ると、どうですか?
「ホントは監督にも伝えたくはなかったんですけど……。やっぱり監督も復帰試合という場を与えてくれて、いろんな人に声をかけてくれて、僕のために時間を作ってくれている最中だったので、その邪魔をしたくないっていうのがありました。でも、万が一、自分に何かあって倒れてしまったときに、『なんで?』ってなっちゃうのが一番迷惑だと思って。さすがに症状を知っている人が現場に誰か一人でもいないとマズいのかなというのはあったので、『監督だけには伝えなきゃ』って思いました」

――伝えたときの監督さんの反応はどうだったんですか?
「『そうか、わかった』と。『でも、お前がやるなら、俺はそれを助ける』みたいに言ってくださったので。監督は一番信頼している人ですし、なんでも言えちゃうような関係性というか、すごく人柄がよくて熱い方なんです。僕も話すと決めた以上は隠さずにすべて話しましたし、最低限サポートしてくれるというのはわかっていたので、当日は『オレが結果を出して、なにがなんでもやってやる』っていう流れになりました」

――試合の後、監督と何か話しました? 
「『いやあ、すいません、話せませんでした』みたいに僕が言って。そうしたら監督は『あの空気じゃ、話せないよな』みたいな感じで。『それ以上に、試合で結果を残すのがすごすぎる』と言ってくれて。監督としてはフリーキックとかPKとか、ゴールできる確率の高いところではチャンスを与えたいと考えてくださっていたらしいんですけど、流れのなかで自分で取っちゃうもんだから、監督は一人ベンチで泣いていたらしいです」

――監督の気持ちはわかるなあ……。指導者としては試合に出すことも迷うんじゃないかなと思うんだよね。先発出場させるとリスクもあるじゃない?
「いやあ、もう、間違いなくそう思うんですけど……。でも、やっぱり僕がやりたいっていう意思を受け取ってくれましたし、それを実際に行動できる監督だからこそ、あの時間が実現したと思います。やっぱり監督のおかげっていうのは大きいんじゃないかな。もちろん監督以外にもずっと練習を見てくれていたスタッフもいましたし、その人たちあってのあの時間でした」

――監督の決断の重さはあったんじゃないかな、想像でしかないけど。
「もう、とてつもなく大きな。ストレスになっちゃうくらいだったと思うんですよ、ホントに。これで万が一何かあったときには、監督の責任になっちゃうんで。責任は監督じゃなくて、全部オレにあるので、『僕がなんとかするんで大丈夫です』と言いつつも、監督が責任を負わなきゃいけない立場になっちゃうので、いろいろ葛藤はあったと思うんです。最後にああやっていい形で幕を閉じられたし、そのあとオレもちゃんと無事に過ごせているので、きっとホントにホッとしたのかなって思います」

――そうだよね。それで、みんなに言えなかった「実はまだ闘病が……」っていう話は、いつぐらいに明かされるの? 
「えーっと……復帰試合が終わって、1か月後くらいじゃないですかね」

――そんなに間があくんだ。
「やっぱりもう一度治療するってなると、また髪が抜けてくるんですけど、『そうなればわかるよな』『もう言わなくてもわかるかな』っていう思いもあって。それで、髪が抜けてきたタイミングで、もう一度みんなに集まってもらって、話しました」


もう一度、新たな目標へ向かって

――9月の復帰試合の前に、肺に転移しているってのがわかった時は、どんな気持ちになったものですか?
「そのときは人生初めての転移だから、『転移しています』って言われたときも、『ああ、そうなんだ』っていうくらいですかね。『うわ、まじかよ? やってらんねぇ』みたいな感じにはならなかったです」

――そうなんだ。
「むしろ転移しないほうがおかしいんじゃないかっていうくらいの感覚っていうか。転移しないことが一番いいことですけど、この病気に対しては避けては通れない道だったと思うので、変に落ち込むことはなく、言われたらやるしかないなっていう」

――骨肉腫だって言われたときもそうだし、転移したときもそうだけど、「なんで?」っていう思い、「なんで俺なの?」とか、「なんでそうなっちゃうの?」って思いはなかったのかな?
「『なんで俺なの?』とはあまり思わないですし、まあ、なっちゃったものはなっちゃったから……っていう。何をどうこうしたら、その次の日とかに消えるとか、そんなのはないので。わかった以上は、そこに対して全力を尽くすしかない。泣きわめいても仕方ないっていうのが自分の根本にあるので。『またやんなきゃいけないな』って切り替えられました」

――この転移がわかったとき、冬の選手権での復帰という道はかなり難しくなるっていうか、無理に近くなっちゃうってことだったんじゃないの?
「うーん、まあ、どうなるのか、最初はわからなくて。せっかく復帰したのに、またこうなっちゃったから、どうなるのかなと思っていたんですけど。オレはサッカーやるって決めていたので、治療してサッカーの練習行って……の繰り返しです。肺への転移がわかって、最初は外来治療だったので、火曜日にはまず治療に行って、終わったらその足でがん研有明病院(東京都江東区)から学校(神奈川県藤沢市)に向かって、練習に出る。その抗がん剤の治療が1週間に1回を2回やって1クールだったので、また次の火曜日に治療に行ってから学校へ行って、練習に参加して。火曜日以外は学校へ行って授業を受けて、練習にも出て……という繰り返しの生活をしていました」

――最終的に「冬の選手権へ」という目標をあきらめざるを得なかったのは、いつくらいのこと?
「あきらめずに全部やりきりました。ただ、チームが負けて(神奈川県2次予選の準々決勝で湘南学院高に1対0)、選手権には出られなかった。もしチームが勝っていたら、(全国高校選手権では)出られていたと思います。そこに照準を合わせて、自分のレベルを上げていたので。負けたときは僕はスタンドにいたんですけど、『自分の思いが届かなかったな』みたいな、そんな感じでしたね。『まあ、そううまくはいかないよね』って思いました。これも人生と一緒だなあっていうのが率直なところ。ここで変に落ち込むこともせず、もう一度新たな目標を見つけて、やっていくしかないかなって思いました」

――負けた瞬間にそういう切り替えができた? 
「負けた直後は、『ああ、終わっちゃったよ』みたいな。『こんな感じで終わっちゃうのか……』と思って。もうちょっとやりたかったなって思いましたけど」

――「新たな目標を持とう」と気持ちが切り替わったのはいつくらいですか?
「試合後にみんなでミーティングしたときに、やっぱり次に向かってやってかなきゃいけないかなって思っていました。でも、それを受け入れるのには1日2日はかかったかな」

――みんなでミーティングしたのは、試合後のスタジアムで?
「試合会場が日藤のグラウンドだったので、そこで。みんなで片づけが終わったあとにグラウンドのなかに集合して」

――新たな目標は、この時点では何に設定したのかな?
「治療に専念するっていうことですね。もう僕は登録上、K1という一番上のピッチに立てることはなくなりましたので、今度は身体のケアの方に気を遣おうと思って。あの試合後からは治療を優先した生活になったかなと思います」

――「高校サッカーはこれで終わり」で、サッカーをするうえで、次のステージはどう考えていたのですか? 
「そこが結構、時間かかったんですよね。今まで目標があって自分を駆り立てて動いていたので。ホントに長い期間、ポカンって空いたんですよ。ずーっと家に居て、寝転がって。サッカーの試合も『別に見なくていいや』みたいになっちゃいましたし。ホントに暇だからサッカーの試合を見るっていうぐらいで。それ以外は治療して、家に帰ってきてのんびりして、たまに友達とボール蹴りに行くぐらい。一瞬ですけど、サッカーをしなくなっちゃって。目標探しに時間を使いました」

――次の目標が見つかるまで、どれくらい時間がかかった? 
「約1か月弱くらいだったと思います」

――その間を経て、見つけた目標はなんだったの?
「英語を習得して、海外でも活躍できる人間になる」

――それで今の大学(Lakeland University Japan Campas)への入学が決まっていくわけだ。
「はい、その流れです」

――今日は予定の時間が過ぎてしまったので、このへんで。またお願いできればと思います。
「了解しました」


                   (第2回 おわり)

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