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二度の涙を越えて

同じファミレスで、二度大泣きしたことがある。

一度目は、中学3年生の時。

思春期ゆえの自意識に負け、部活の人間関係に悩んでいた。中高一貫校に通っていた私は、学年が上がるごとに積み重なる人間関係の複雑さや責任が嫌になり、それでも逃げるほどの勇気も根性もなく、うじうじと苦しさを抱え込んでいた。

ある日、朝起きた時、うまく息が吸えないことに気がついた。普通に生きているから息はしているはずなのだけれど、たくさん喋った後に吸う息が重い。バラエティ番組を観て大笑いした後に吸う息は、目の細かいフィルターを通しているような感じがする。気づかぬふりをしていた不調は段々と積み重なり、数日後、学校を休んだ。

学校を休んで2日目の夜、母と兄と近所のファミレスに夜ご飯を食べに行くことになった。家から徒歩8分くらいの、幹線道路沿いにあるファミレス。平日の夜だったからかお客さんはそう多くはなく、店員さんは店の奥のボックス席に案内してくれた。

「なぁに気にしてんだよー」とさりげなくわたしの心を突つく兄の言葉が引き金となり、メニューに目を落としながら、わたしは泣いた。声をあげて泣いた。「えっ、泣いてんの!?」と驚く兄の声は、いつも通り優しかった。

どうしたんよー、と苦笑する2人の前で、部活がね、苦しいの、とポツポツと話した。運ばれてきたハンバーグステーキは熱くて美味しかった。いつの間にか泣き止んで、いつの間にかお腹いっぱいになって、3人で家に帰った。翌日、わたしは学校へ行った。


2回目は、2年ほど前。当時付き合っていた人との、別れ話だった。

なんとも自己中な年下で、酷いやつだったことだけは覚えている。そんなことを見抜けなかったわたしも、かなりの未熟だった。好きだ、好きだ、という言葉だけをぬるく信じ切ってしまうようなアラサーだった。本当の「気持ち」は、行動のみに宿るものだ。

身体を鍛えているから、という理由でオニオンスープしか頼まない彼の前で、わたしはミニチョコパフェを食べた。散々噛み合わないやり取りを繰り返し揉めてきたのにも関わらず、呑気な顔をしている彼にムカついて冷たい態度を取っていたら、彼の態度はそれ以上に冷たくなっていった。どこまでも自己中なやつだ。自分の感じる痛みが人のそれより多いことを嫌う人だった。

これだけ悪口を書けるのに、いざ別れるとなると甘くて楽しい思い出ばかりが浮かんでくるもので、最後は悲しくなって泣いた。ボロボロ泣いた。帰りに家まで送ってくれた彼の車の後部席が水浸しになるんじゃないかと思うくらい泣いた。それで、終わった。今なら思う。わたしは、一緒にミニチョコパフェを食べてくれるような人が好きだ。なんなら、キャラメルパフェとかいちごパフェとかフレンチトーストとかを頼んで、分け分けしたい。


そんな二度の涙の思い出を越えたわたしは30歳になり、休職を経て、会社を辞めた。

体調を崩して会社を休んでいた間、わたしはそのファミレスに頻繁に通った。そこで、noteを書いた。たくさん書いた。何をすればいいかわからなかった、自分がどこに向かって歩いていけばいいかわからなかった、途方に暮れていた時に、わたしを助けてくれたのはnoteだった。

平日の昼間、みんなが働いている間、わたしはトートバックにパソコンと財布とケータイを突っ込んで、ファミレスに行った。そこで書いたnoteが、わたしを何度も導いてくれた。

あのファミレスに入る時、わたしは2度の涙をしっかりと思い出す。あぁ、あの席で泣いたなぁ、オニオンスープの器は黄色だったなぁ、と。そして、いまの自分を誇らしく思うのだ。元気ですよ、と。

見知った店員がいるわけでもなく、誰が事情を知っているわけでもない。誰に言うでもなく、わたしはその「場所」に挨拶をしているような気持ちになる。


あのファミレスは、間違いなくわたしの「レガーレ」だと思う。

「レガーレ」という言葉は、イタリア語で「繋ぐ」という意味らしい。お客さんとお店。お客さん同士。過去と未来。飲食店というのはたくさんのものを「繋ぐ」場所だと思うけれど、わたしにとってあのファミレスは「自分」と「自分」を繋ぐ場所だと思う。行っては泣くばかりだった過去のわたしと、少しはたくましくなったのかもしれない今のわたし。点と点で、しっかりと太く、繋がっている。

店は変わらなくとも、そこには過去の自分が見えるし、今の自分も在る。たくさんのものが移りゆく中で、それってすごく、尊いことだと思うのだ。


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営業自粛で大変な状況にある飲食店の皆さんに想いを寄せて書きました。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。