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ひとりのために

今日は、またしても一日中養成講座の解剖学講義をしておりました。
とてもありがたいのですが、オンライン講座のため、講義が増えるとどんどん運動不足になっている気がする最近です🤣

しかし、今月土日はほぼ講座とセッションで埋まっておりますので頑張ります😤
ありがとうございます!

養成講座は12月に今年最後のLINE先行受付〜一般受付をします。
ご興味ある方はチェックしてくださいね。

解剖学でお伝えすることは必ずしも真実ではない

皆さんは、いろんな教科書に書いてある解剖学や、先生が教えてくれる解剖学について、どう捉えているでしょう?

絶対的な真実で、誰も否定できないもの。とか?
だいたいきっと、疑うことなど考えることすらないのではないでしょうか。

人体に関する研究や、医学の発展は素晴らしいです。
ですが、はっきりとわかっていないことばかりなのが本当のところなんですよ。

実際、今現在治すことができない病気や障害というものは少なからずこの世に存在しています。
治せないということは、それについて機序や対応するための方法がはっきり解明されていないということです。

例えば、「特発性〜」とか呼ばれるもの聞いたことありますよね。
こーゆー表現をされるとなんかよくわからないですけど、これって要するに「原因がよくわかんない」っていうことなんです。
病名として「特発性〜疾患」とかついたら、「〜の病気の原因よくわかんないやつ」って言われたようなもんなんです。

どう思います🤣
なんかすげー適当じゃないですか?

解剖学も同じようなもんです。
なんか難しい言葉で、漢字いっぱい使ってさも仰々しく表現されてますが、今現在事実だと言われているものはいくらでも覆される可能性のある世界です。

身体という小宇宙を理解するための大枠・概要は必要なので、今ある事実を採用していますが、その事実はいつかひっくり返されるかもしれない。
一応小難しい話もしながらも、お伝えするときはいつも、そういう目線も持っといてねぇ〜というユルさも持つように言っています。

誰一人として同じ人はいない

私の解剖学講義はとても基礎的なところから障害について、臨床的な考え方まで全部繋げてお伝えしています。

様々な障害・怪我、それぞれにおいて一般的な分類とか定型の対応とか言われることはありますので、そこはお伝えはします。

ただ、その上で私が必ず強調してお伝えしているのは、決して全て同じ状態の人はいないということ。
同じような症状であったとしてもそこに至った経過はきっと違うし、内側で起こっていることも全く同じ状況であることはありえないこと。
目の前のその人の身体はその人の人生そのもので、それを観ていくことは、その人の人生を観る心構えが必要なこと。

そこを上部だけでなく、ハラに落として欲しいから、何度も何度も繰り返してお伝えしていきます。

だからこそ私の講座では、症状に対しての対策を定型でお伝えはしないのです。

この症状に対してはこう。
この形はこの状態。
こーゆー人にはこういうふうに。

それをお伝えしてしまうと、あっという間に人の身体の尊厳は消え去ります。
「その人それぞれの人生」は完全に無視されてしまいます。

そうすると、生徒さんは「そのパターンの身体を持った人」として扱われていきます。
個性を無視した対応。
その時はそれで一時的に良くなるかもしれません。

ですが、そこからそれぞれの生活、人生に戻っていくとまた結局同じような問題を起こして行ってしまったりします。
それは、その人の生活・人生においての原因を理解せず、改善もしようとしていないからなのです。

目の前にいるただひとりと向き合う

定型がないということは、その都度考えて思考することが必要になります。

とても大変です。
面倒臭い😅

だけど、そのステップは外してはいけないところなのです。
目の前にいる生徒さんと、その生徒さんの人生自体と向き合っていくために。

私はそれができる講師を一人でも多く育てていくために、日々活動しています😌

志同じくする方は、大歓迎しますので、いつでも声をかけてくださいね🤍

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