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時にはマクドナルドで次男の「それ」を右手で受けとめた話をしようか

題名でお察しの通り、趣向ないしは状況によっては不適切な内容が含まれておりますので、それらをご理解頂いた後お読み頂ければ幸いです。



次男が1才と6ヶ月くらいの頃、家族でマクドナルドへ行った。

私はダブルチーズバーガーセットを買い、妻はチキンフィレオセットを買った。長男はポテトと図鑑のハッピーセット、次男はチキンナゲットとおもちゃのハッピーセットを買った。

ありていに言えば、食事中に次男がう○こをしたので、おむつを替えるためにおむつ替えセット入りのトートバックを肩に下げて次男を連れてトイレへ行った。

そのマクドナルドのトイレにはおむつ替え代が無かったので、大のトイレでおむつを変えるとにした。

私は次男を壁に背を向けて立たせた。左靴を外し、ズボンの左足を脱がせ、左靴を履かせた。右足も同じ行程を経て、おむつを取り外し、「それ」をトイレへ放り込み、素早くおしりふきでおしりを拭いて、取り外したおむつに捨てた。

すると途端に次男が「ふっ!」と顔を赤くして踏ん張り始めた。気づいた時には手遅れだった。なんならすでに先が見えていた。

殆ど反射的に私は次男の「それ」を右手で受け止めていた。もちろん素手で、だ。次男の「それ」はぐるぐると私の右掌の上でトグロを巻き、その確かな質量と温もりが右掌に伝わってきた。

奇しくも長男が1才と6ヶ月くらいの頃、お風呂の水面をぷかぷかと泳ぐ長男の「それ」を鷲掴みにしてトイレに放り込んだ実績こそあったものの、それは殆ど一瞬のことであったし、何しろ自宅という慣れた空間でもあったので一呼吸置いて冷静に対処することができた。その後のお風呂の復旧作業にはいささか手を焼いたけれど。

話を元に戻そう。次男の「それ」は適度な質量と粘り気があり、大変健康的な「それ」であった。液状では無かったことが不幸中の幸いだった。そんなことを思いながら右の掌に鎮座する次男の「それ」をしげしげと眺めていた。

次男が文字通りお腹を空かせて荒ぶり始めたので、急いで「それ」をトイレに放り込もうと思ったが、右掌を逆さにしても「それ」は微動だにしなかった。適度な粘り気が逆手となったのである。

地球の重力のような見えない力では、この右掌から離れるつもりは無いようだ。私はトイレットペーパーを左手に巻いて「それ」を右掌から切り離した。まるで湯煎したチョコレートを丁寧にスパチュラで削ぎ落とすように。

その後、応急処置としておしりふきで手を拭き、次男のおしりを拭き、その際に少しだけ次男の「それ」が右手の指先についたのでまたおしりふきで手を拭き、おむつを履かせ、ズボンを履かせ、靴を履かせ、簡単に手を洗い、荒ぶる次男を妻のもとへリリースした。

ずいぶん時間がかかったので妻が訝っていたが、私にはまだやることがあったので状況説明もままならぬままトイレに戻った。手をしっかり洗わなければならない。

手洗い場の鏡に私が映っていた。今朝、鏡で見た私と比べると心なしかやつれた顔をしている。私はふと思い出したように右掌の匂いを嗅いだ。

青空の下でホルスタイン達が大地に上に茂った新緑を食んでいるような、何処か懐かしい牧歌的な光景が頭いっぱいに広がった。(そんな光景見たこともないけれど。)

その匂いが右掌から離れることはなかった。洗っても洗っても取れなかった。家族がソファー席でマックポテトを食べているのを余所に、私はマクドナルドのトイレで手を洗っていた。映画「アビエイター」のレオナルド・ディカプリオみたいに。


「父親になるということは、ありのままを受け入れるということだ。」


私の父が以前そのようなことを言っていた。どういうつもりでそんなことを言ったのかは定かでは無い。しかし、今の私にはほんの少しだけ分かる気がする。子供を育てることで、私は少しずつ父親として育てられていくのだろう。

右掌に残る「それ」の感触を握り締めながら。


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