ヒゲダンとさだまさしの共通点

結論から言うと音楽的に似たジャンルなミュージシャン同士ではないですが、さだまさしファンをこじらした人の戯言と思ってご覧ください。

最近、さだまさしを聴く以外の時間は「髭男」の曲を聴いている、といっても過言ではないくらいよく聴いています。
メジャー・デビューからわずか2年くらいでランキングのトップ10の半分くらいを髭男で占めるくらい、今圧倒的な支持を集めているバンドです。
私も、2018/19年のツアーの映像をWOWOWで見て、「メジャーデビュー1年目で、こんなにテクニックもあって、アリーナクラスのオーディエンスを楽しませる事ができるなんて凄い…」と腰を抜かしそうになった記憶があります。

親しみがありながら極めて音楽性の高い楽曲や、ブラックミュージックをベースにした癖になる独特のグルーヴ感などなど、彼らを形容する言葉は枚挙に暇がないと思います。ただこのブログはさだまさしのマニアのブログなので、敢えて絞り出すように「さだまさしとの共通点」という切り口で記事を書いてみたいと思います。

以下3点を軸に書いてみます。

1. 人生に対する前向きさ
2. 歌詞の聴きやすさ
3. ライブの魅力

1. 人生に対する前向きさ

髭男の曲は前向きな曲が多いな、といつも思います。単に前向きというよりは、中国語でいう「正能量」がある/高い、という言葉がふさわしいなと思い、なかなか適切な日本語が見つけられてません。
僕なりに訳すと、情熱的で、健康的で、希望に満ちていて、そして人を元気にするような力を指す単位が「正能量」と表現できると思います。

髭男は2019年を代表する失恋ソングとなった「Pretender」の印象が強いですが、それでもこの歌の中では別れた彼女のことに恨み言を言うこともなく「君はきれいだ」と表現したり、生きる中での困難に安易にくじける事なく常に一歩でも前に進もうとする歌が多いように思います。

ただ前向きなだけでなく、髭男から強く感じるのは優等生的な「健康さ」。彼らの楽曲は人を汚い言葉でなじったり雑な愚痴を吐き捨てるような事がなく、その事が安心感にもつながりますし、全面的に感情移入しやすい雰囲気を作り出しているように思います。

髭男の曲で個人的に最も「正能量」を感じる曲は「イエスタデイ」という曲。昨日までの不甲斐ない自分を捨て、たとえ未熟でも誰から何を言われようとも愛する人のために明日を歩んでいく、という強い決意が、疾走感あふれるメロディに乗せて力強く歌われる楽曲です。

さだまさしについても控え目に述べると、さだまさしの楽曲は世間から「暗い」と評価されることが多く、特に固定観念が強い old ages の人たちからは(あれだけテレビでひょうきんなキャラクターを見せつけられても)「暗い」とされる事が多いですが、これは過ごしてきた時代背景が大きいかなと思います。
さだまさしが活躍していた70年代~80年代は、バブル全盛期で、世の中が軽薄短小な価値観、ノリの良さを求める価値観にあふれていました。そんななかさだまさしのように人生について前向きに真剣に考えるような歌を歌う人は「真面目すぎてつまらない」「暗い」と評価されていたように思います。
(髭男も、時代が時代なら、そのような評価……優等生過ぎてつまらない、真面目臭くてつまらない……といった評価をもしかしたら受けたかもしれません)

さだまさしは「暗い」のではなく、「人生に対して真剣」で、人生の喜怒哀楽を表現することに長けたミュージシャンなのかなと思います。そして、人生は辛いことだらけだけど、前向きに生きていこう、という「正能量」をを強く感じます。
彼の作品の中でもっとも前向きさを感じる曲は、やはり「道化師のソネット」でしょうか。

さだまさしは、311の東日本大震災以降、日本が多くの困難に直面し自信をなくしてきているこの時代に、YouTubeなどを介して若い人を中心に正当に再評価が行われるようになってきていると感じます。

髭男も、2019年からずっと人気ですが、今ほどの圧倒的な人気を得ることができたのは「コロナ禍」に直面した我々が聴きたいと思う「前向きさ」にあふれているからかな、と思うこともあります。

2. 歌詞の聴きやすさ

髭男の楽曲は、複雑でありながらノリの良いビートとグルーヴに載せて、親しみやすいメロディと歌詞を重ねている、と言葉で表層的に表現できるかなと思います。

とはいえ、実際楽譜を読んだりすると複雑なコード進行でメロディラインもうねりまくっていて、親しみやすさとは何なのか、もう少し考えてみると、僕なりの結論は「歌詞の日本語の、文章としての明瞭さ」が大きな要素なのかなと思っています。彼らの曲は、CD音源でもライブでも歌詞の内容が明瞭で、聴いていてとても聞き取りやすいのが印象的です。

個人的に、髭男の歌詞でとても感銘を受けたのが、これまた代表曲の「I love…」です。

高まる愛の中 変わる心情の中 燦然と輝く姿は
まるで水槽に飛び込んで 溶けた絵の具みたいな
イレギュラー
独りじゃ何ひとつ気付けなかっただろう こんなに鮮やかな色彩に
普通の事だと とぼける君に言いかけた  I Love その続きを贈らせて

1番のサビの歌詞を引用して書いてみましたが、サビの長いセンテンスの文章がひとつの自然な文章として成立していて、歌からここだけを切り出されても違和感がありません。「は」や「に」のような助詞で歌詞のフレーズを区切っていて、次に来るフレーズを自然に想像させるようになっているため長いセンテンスを読んでも意味が明瞭で疲れずに聞き取ることができます。

一般的に、歌のリズムやメロディにあわせて無理やりつじつま合わせのように音や単語を散りばめる事が多く、とくに髭男のようなグルーヴ感を大事にするのであればそういう手法は顕著になりがちです。
しかし髭男の曲の歌詞は日本語の文章として自然なものが多いです。だから聴いていても言葉が耳に馴染むし、次に続く歌詞も日本語として自然につながるから安心感もあるし、歌う時も自然に言葉が口をついてきます。

この文章の自然さが、髭男の曲の親しみやすさ、聴きやすさの、一つの鍵なのではないかな、と思っています。

他にもビートとコードの重ね方や、皆で Sing Out や手拍子で参加しやすいサビの作り方などたくさんテクニック的なところもいくらでも多く挙げられるとは思います。

さだまさしについては、歌詞で描かれる情景の見事さ、日本語のきれいさについては常に評価の対象になっているため、ここでは長くは書きません。

髭男とさだまさしの大きな違いは、視点の差。
さだまさしは第三者的に俯瞰した目で自然や人々の心の情景を描写をするような曲に佳作がとても多いですが、髭男の曲はもう少し視点が「自分」寄りなところかな、と思います。

3. ライブの魅力

サブスク時代のミュージシャンは、極めて内省的に極限まで曲を作り込み、完成度の高い世界観の楽曲を聴かせてくれる方が多いと思います。独りでもしくは極めて少人数で録音からミックスダウンまでMacなどPCを用いて行えてしまうため、多くの人が関わる事による「ノイズ」的なものを削除し、己の感性から染みてきた世界観を純度高く昇華させることができる時代なのかなと思います。
(米津玄師とかがその代表格ですね)

その反面、楽曲がどうしても箱庭的なものになりがちで、録音済みの作品をヘッドフォンで聴くには良いけど、ライブで大観衆の中で大音量で聴きたいと思うかというと、そうでも無い、というミュージシャンもいることも事実です。

髭男は、この時代のミュージシャンには珍しいくらい「ライブ派」のミュージシャンなのかなとは思います。ライブでの盛り上げ方のうまさはベテランミュージシャンと見紛うくらいの巧みさですし、確かな音楽性から放たれる彼らのパフォーマンスはライブでこそ輝くように思えます。
若手の中でメジャー級では「あいみょん」とならび、たとえギター1本ピアノ1台の弾き語りであろうとも、彼らの奏でるビートや世界観を聴きたいと思わせるミュージシャンです。

そう強く感じさせるのは、「Stand By You」をピアノの弾き語りとアカペラのみで演じたこの動画。

余計なアレンジを廃して、ピアノと手拍子で奏でるビートと、その上で漂うように流れるメロディを存分に堪能できるアレンジになっています。髭男の曲は、楽曲そのものに楽曲の芯となる余人に代えがたいグルーヴ感が溢れていて、それはCDだろうとライブだろうと、フルバンドであろうと弾き語りであろうと魅力が色あせません。

さだまさしは、ソロコンサート回数が4400回(平均で1年100回前後)を超える驚異的なライブミュージシャンです。しかも小さい会場でのコンサートは少なく、すべてが数千人クラスの会場でのものです。

さだまさしのライブは「トーク」という、これまたなかなか余人には代えがたい特徴がありますが、ギターの弾き語りでも、フル編成の交響楽団を引き連れてでも素晴らしいライブパフォーマンスを発揮できるのが魅力です。

やはり、ライブで人々を熱狂させ、多くの人の支持を集めるには、確かな実力と音楽性、揺るぎない世界観が大事なのかなと思います。髭男も、さだまさしも、そんな魅力にあふれるミュージシャンと言う意味では共通点があるのかなと思います。

「115万キロメートルのフィルム」と「関白宣言」

最後に、結婚をテーマに、少しコミカルな雰囲気も交えて歌った曲として、髭男とさだまさし両氏の曲を取り上げて終わりたいと思います。

「115万キロメートルのフィルム」は、おそらくこれから結婚する相手に対して思いを伝える、プロポーズソング、結婚ソングです。

「こんな安月給じゃもうキャパオーバー」と若干頼りない本音ものぞかせながら、それでも、ささやかな思い出や幸せをを二人で紡いでいこう、という思いで溢れています。

「115万キロメートル」というのは、歌詞の中にも出てきますが、80年間映像を取り続けた時のフィルムの長さ、を表しているようです。

個人的には

写真にも映せやしないとても些細なその仕草に
どんな暗いストーリーも覆す瞬間が溢れている

という歌詞が大好きですね。どんなに長くフィルムを取り続けたとしても、日々当たり前のように繰り返す些細な出来事こそが僕たちにとって大切なんだ、という強いメッセージが伝わってきます。

「関白宣言」も、結婚するにあたり相手に思いを伝える楽曲です。男性が女性に虚勢を張りながらも、一生涯お前を愛し続ける、という溢れんばかりの愛情を伝える、全体のストーリーを通してみると微笑ましさも感じるような楽曲です
(1~2番の歌詞の表現でだいぶ世の中からバッシングもあったみたいですが)

「115万キロメートルのフィルム」では、「主演はもちろん君で」「僕は助演で監督でカメラマン」と述べる一方、「関白宣言」では相手の女性に対して「かなり厳しい話もするが俺の本音も聞いておけ」と上から目線も感じるような強い口調(虚勢)で話しており、この2つの曲はまったく逆の立ち位置なのではと感じるかもしれません。

「関白宣言」の世界観は女性蔑視だという意見もあるでしょうし、今の時代少なくとも時代錯誤ではあるかもしれません。
「115万キロメートルのフィルム」も、昔の亭主関白な人からみたら「軟弱すぎる」「頼りない」という意見も出てくるかも知れません。

しかし、どのようなスタンスであろうとも、「映画のフィルムを取り続ける」という言葉で「一生涯君のことを支えるよ」と強く宣言することと、「俺より先に死んではいけない」という言葉で「死ぬ間際まで一緒にいよう」と宣言すること、愛情の深さは共通点がありますし、どちらも男性としての矜持や優しさを感じることができるように思います。

なお、さだまさしは、「関白宣言」をリリース後、結婚も経て現実を知った結果、「関白失脚」の世界観にたどり着いてしまいましたが、

髭男が将来どのような境地にたどり着くかは……これからに期待ですね。

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