ぼくらが感覚を映像で見ていた頃

ぬーから飯いかん?と連絡がきて、大井くん呼んだら来て、あっちゃん呼んだら来て、中学のときの同級生が集まった。

いつもは年末とかお盆とかあらかじめ予定を立てて集まっていたのだけれど、こんな感じでも集まれるんだとなんか新鮮だった。 

ウエストに行ったんだけどお酒が300円と中々良心的なお値段。


帰り道に一緒になった大井くんが少し考えこんだあと話始めた。

-情報が入ってきすぎて頭が爆発しそうになるときがあるっちゃん
 
こう、目に映る景色とは別に見てる映像があって、空き地におじさんが立っててけん玉を持ってる映像が浮かぶんよ。で、しばらくしたらおじさんがけん玉を振り回し始めるっちゃん。そうしてしばらくしたら俺がけん玉の玉になってぐるぐるまわりだす。そしてけん玉の俺は最近見たこととか聞いたこととかの映像がぐるぐる回るのを見てて、現実の俺が見てる映像と混ざりはじめて、ぐるぐる回って最後に爆発するっちゃん。


最近それがなくなって、感覚がないって感じになってきたらしい。自分事感がないけど第三者視点にいつも切り替えられるから最強だと言っていた。


彼が感覚を映像で見てることがとても面白いと思った。

それは理解のできないものを、よりそのままに受け取ろうとする行為のような気がする。僕たちが言葉を覚えて切り落としてしまった回路のような。世界を枠の中に納めてしまう前の。

などと勝手に思う


『限りなく透明に近いブルー』でリュウが頭の中でつくりあげる宮殿を思い出した。

-俺の頭の中みたいなやつをさ映画にしたやつが見たいよ。きっとそれは世界そのものなんだ。絶対おもしろいよ

みたいなことを言っていた。

きっと世界をそのままに見ようとしたら、曖昧模糊で到底言葉にできない。生まれたばかりの頃はわからないなりに全部見えていて、生きていくのに必要ない回路を切り離して、そうして『わたし』ができたんだろうなどと。

知らんけど。




最近やばいっちゃんというから、そのけん玉の映像を見ないことがよくないのかと思ったら、大井くんはそう捉えてなくて制御できるようになったんだといっていたけれど、ぼくはけん玉になることはとても必要なことだと思った。


人間はその回路を取り戻さなければいけない気がする。
日常生活に必要ないからと切り離したそれを再接続する。

けん玉になって世界を見たい