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『観測者が切実になっているものをうつす多面体』-アートとは

ある絵描きの方が「アートって言葉が乱用されすぎていてもはやアートという言葉がなにも語っていない、わたしもケーキ見てわぁアートとか言っちゃうけど」と棚あげを自覚しながら言っていたのが面白かったけど、たしかにどういうものとして自分がその言葉を使っているかは大事だなぁと思ったので、振り返ってみる。


僕がアートだなぁと思うとき、その対象はあいまいで多態性を持ち観測者がその瞬間一番気になっているものをえぐり出してくる、というようなものであることが多い気がする。

極論、事象というものはどんなものも多面的でその瞬間色んな事が起こっているけれど、人間は気になっていることしか見えないし、見たいように見る。

人間は個体別に特有の観察点を持っているので、どうしても事象に対してひとつの視点から見がちな傾向にあるけれど、すべてのモノゴトは多面体な気がする。

人間はその多面体を多面体のまま認識することは得意ではないよう

それは、うまれたばかりのころは全部見えていたけれど成長の過程で主体の生存において必要のない回路を切りはずしていく作業だったかもしれない

その人間の視点により観察された瞬間にアートは完成する
あいまいだったものが形をおびる

アートなんてものを定義すること自体横暴だけれど、乱暴にアートとは主体が切実になっているものをうつす多面体だということにしてしまえば、

一番のアートは人間な気がする

なんかもったいないなぁと思うのは多くの人がえぐり出されたものを対象の特質だとして自分と切り離し、自分事として捉えることを放棄がちで。(わたしも含めて)

見たくないものであるほど自分から切り離している。

世界とはつまるところ自分であり他者は鏡なんだろう

えぐり出されたものは多分『わたし』だ


知らんけど


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岡本太郎の『自分の中に毒を持て』の中に登場する女性を思い出した

彼の個展でその女性は一枚の絵を2時間見つめたあと「いやなかんじ!」といって立ち去った。

岡本太郎はアートとはそうでなくてはならないと言った

いやなかんじ!
だがしかしbut気になる
けどけれどyet見てしまう

とどのつまり見えているのは自分自身で。だから気になる。
アートとはそんなものではないかと思った