見出し画像

ムスタファ

2010(平成22)年8月、チャラン・ポ・ランタンと愉快なカンカンバルカン名義でリリースされたアルバム『ただ、それだけ。』に収録された楽曲「ムスタファ」。そのタイトルを見てすぐ頭に浮かんだのが坂本九の「悲しき六十才」だった。再生するとメロディも日本語の訳詞もどこか似ているが、全く違うものであった。尤も、チャラン・ポ・ランタンには、これをきっかけに初めて触れたが、その世界感は垣間見ただけではあるが興味が湧いている。2019(令和元)年7月、10周年を記念してリリースされたベストアルバム『いい過去どり』にもセレクトされた「ムスタファ」に、偶然、聴くチャンスに至った。

1960(昭和35)年8月、ダニー飯田とパラダイスキングがリリースしたシングル「悲しき六十才(ムスターファ)」は、坂本九をボーカルに迎え、レコード会社移籍第一弾としてリリースされたシングルで、10万枚を超えるヒットとなった。1958(昭和33)年5月、坂本九は高校在学中にバンドボーイを経て、井上ひろしとザ・ドリフターズに加入しボーカル兼ギターを担当する。この年に始まった「日劇ウエスタンカーニバル」に出演し新人賞を受賞している。しかし、芸能界の苦しさも経験し、母親の反対を押し切って入った芸能界に疑問を抱き、「芸能界を一旦休業して学業に専念する」と引退してしまう。ところが、当時のプロダクションが本人と母親を説得し、水原弘の抜けたダニー飯田とパラダイスキングのメンバーにスカウトするとレコード会社と契約した。そして、1959(昭和34)年6月、「題名のない唄だけど」でレコードデビューする。

1958(昭和33)年、クリフ・リチャードのデビューシングル「ムーヴ・イット」がリリースされ、ブリティッシュチャート2位を記録した。クリフは、16歳のある日、カーラジオから流れてきたエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイクホテル」を聴いて、「エルヴィスの様になりたい」と思い歌手を目指した。世界中に巻き起こったエルヴィス旋風に、同様に影響を受けた坂本九。クリフのバックバンドには、偶然にも最初「ドリフターズ」と命名された。後に英国のロックの起点となるバンド「シャドウズ」の前身は、その後、ギタリスト、ハンク・マーヴィンを擁して、英国のロック史に”ギターの神様”として時代を築いていく。

1953(昭和28)年、中村八大、松本英彦、ジョージ川口、小野満のビッグ・フォアが結成された。永六輔はその著書でニッポンのジャズ時代の人気ぶりを「チェッカーズの比ではなかった」と述懐している。坂本九のベストアルバムを初めて聴いたのはその著書を読んだ頃だった。「悲しき六十才」は、青島幸男の訳詞の通り、トルコの物語だった。原曲は、当時、ヨーロッパでダンスミュージックとして流行していたことを知ったが、改めてググってみると、エジプト人のモハメド・ファウジの作曲とある。モハメドは、1966(昭和41)年、カイロで48才で亡くなっているが、1960(昭和35)年、エジプトのシンガー、ボブ・アッザムが欧州各国でリリースしヒットしたナンバーだった。カラオケで見つけた「悲しき60才」は、何回か歌う機会があり一部の人に受けた。数十年前に九ちゃんが歌った和製ポップスは、極めてマニアックなナンバーとなっていた。

ところが偶然が起こった。ある日、海外のとあるレストランでで食事をしてたら、そのダンスナンバーの原曲が店内に流れたのだった。聴き覚えのあるイントロは、40年以上経っても流れる程のスタンダードナンバーとなってるのかと、トラディショナルを感じた瞬間だった。

1978(昭和53)年11月、クイーンのアルバム「ジャズ」がリリースされた。「前作のアンセム群を越えることが非常に困難である」と自覚すると、「一つの方向性に偏らず、より多彩なアプローチに復帰することが前へと進む道筋になる」ということからアルバムのタイトル「ジャズ」が決められたという。アルバムからシングルカットされた「バイシクル・レース」はFMラジオからよく流れていた。覚えたばかりの自転車を意味する英単語は、どうして何度も連呼されるのか子供には分らなかった。アルバムのレコーディング中に開催されていたツール・ド・フランスにインスパイヤされたという。このアルバムの1曲目に収録されたナンバーが「ムスターファ」だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?