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越後平野の守護神・大河津分水のお話

左側の流路が大河津分水。右側が三条市、奥が燕市・新潟市

日本有数の穀倉地帯である越後平野。
しかし100年前までの越後平野は、3年に1回洪水が起きる超災害地域だった。
洪水の水は平野に留まり沼地となる。
農業生産性は著しく悪くなり、僅かに取れた米も生育環境が悪く、鳥も食べないという意味の「鳥またぎ米」と呼ばれるほど不味かった。

そんな状況を一変させたのが、大河津分水路だ。

大河津分水の構想は江戸時代からあった。
越後平野の洪水の頻度はめちゃくちゃ高く、必要性は誰しもが感じていた。
越後平野を流れる信濃川水系の水の出口は山や丘に囲まれていため、一度洪水になるとそのまま留まり続ける。
現在の新潟市・燕市周辺は沖積平野であり、標高も低い。そんな場所に水は溜まり続けた。
江戸時代の技術力·資金力では到底不可能で、明治時代になってからも資金面や新潟港が浅くなることへの懸念によって途中で頓挫したりしてなかなか進まない。

大河津分水建設の契機になったのは、明治中期の大洪水·『横田切れ』だ。

「横田切れ」と浸水域

横田切れは多くの家屋を流した。
堤防は決壊し、産業は壊滅。 当時の主力産業だった金属加工業も水没。路頭に迷った農民などは、北海道など各地へ移住している。
(ちなみにこのときの北海道への移住によって、北海道弁に新潟弁の要素の一部が取り込まれる)
こんな災害は二度と起こしてはならない。誰しもがそう思ったことにより、大河津分水路建設の機運が高まっていく。

だが建設には山が立ちはだかった。 標高100m。
その山を割って水路を作る必要があった。
とてもじゃないが、手で掘削するには膨大な人工数が必要となってくる。
そのため、当時最先端の土木技術である機械が投入されることとなった。

大河津分水建設中の一幕

流路、堰などの諸設備が完成し、大正11年通水。去年で100周年だ。

だが数年後には堰が陥没。地盤も軟弱だったのだ。
そこで修復工事として堰のタイプを変更し、川の侵食を防ぐ一大工事が行われることとなる。
工事を行って昭和6年に完成。

これにより、洪水時は分水路に多く流し、渇水時は分水路への水を止めることで、信濃川のコントロールがある程度可能となった。

大河津分水完成により、洪水の頻度は格段に減り、田んぼへの水のコントロールも可能となった。「鳥またぎ米」と呼ばれていた米も、大地のポテンシャルを生かして現在の美味い新潟県産米になる。

だが大河津分水路の恩恵は稲作だけではない。
現在の新潟市の万代シティなどはこの工事によって川幅が狭くなり、陸地となった土地を開発した場所だ。
新潟市の中心にありながらも大規模な施設を作れたのにはこういった理由がある。

また、交通の大動脈も変わった。 かつては洪水を避けて山側に建設された鉄道及び旧国道だったが、ど真ん中を通れるようになり、後に新幹線·高速道路などはこのど真ん中を通るルートとなっている。

大河津分水100周年のポスター

通水100周年を迎えた大河津分水路は、次の100年に向けて大規模改修中だ。 これからも越後平野を守る守護神として、新潟を守るために。

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