《都市叙景断章》についてのあれこれ

 ほんらいならこんな馬鹿げたことはすべきではないし、すでに書き終えたこと以上につけたすことばなどないはずなのだけれども、相変わらず馬鹿ばかりがのさばるこの世界で、せめてあの当時書いてしまったものらが、もう少しまっとうにうけいれられるためには、となにかをいわずにはいられなくなってきたので、わたしが書いてきたものが詩かどうかの判断をくだすのはひとまずさき延ばしにするとしても、なぜそのように書いてしまったのか、書くしかなかったのかを釈明してみることにした。おおよそひとりよがりで、理解されることを拒むと誤解されているのであろうあれらは、それなりにある必然性や切実さをもって書かれたような気がするし、それが読み手にも素直につたわってしまったとおもいもするが、そうした諦めとは裏腹に、現実には、ほとんど誰も、意に介さないか無視を決めこまれてばかりなので、それではいささかあんまりな気もしないでもないのだけれど、それは別段書くことの孤独さを誘発させるわけではほんとうはなくて、むしろ想定内の、見当違いな反応に出会すたびに、彼らの肩書きのわりには素朴で無邪気なそれを垂れ流すことに臆するふうでもない表情に、鼻白みもする。
 たとえば、これまでにわたしが書いてきたもののなかでも、比較的「わかりやすい」とされる部類にはいるであろう「《都市叙景断章》」(タイトルが括弧書きなのは、桐山襲の小説のタイトルを、読みもせずに借用したことに気後れしたからだ)についてなにかくちにしようとするならば――。

https://note.com/saclaco/n/nc1952393d036


 このテクストが「わたしたちはもう、都市を失ってしまって――、」という一行から書きはじめられていることからしても明白なように、これを書いた二〇一六年秋当時の、三年以上が経っても癒えることも忘れることもできない生まれ故郷へ未練を謳ったもので、生まれてからの四半世紀を過ごした中野から西へ二〇キロばかり移動しただけでも、いわば分離不安に陥ったかのような心境がおさまらずにいたというのは、傍たからすればだいぶ滑稽に映るだろう。

どこにもない街を、どこにもない風景の胃液が溶かしこんでいくそれらの、鎮静剤の効かない街路をすべるありきたりな恋愛映画の断片が、無惨に、というよりも、紙幣に集られた踝にうちこまれた高層ビル群の、たとえばその表情が、代替可能な無数の窓ガラスに反射しようとして、拒まれている、劣化した接着剤には少しの澱粉も浚われてはいないし、だからわたしは容易にすりぬけることができてしまっていた、透明な、燦爛に、安っぽい情景の、角膜を薄く削っていく、消費されてばかりの、きれいな、ありふれた、憧れを装った、紙幣、それか、肉慾――、

 それにつづく一連は、もはや記憶のなかにしか存在しない我が家が建つ「どこにもない街を」、どれだけ頭のなかで反復させようとも消えない痛みを抱えて、深夜にNetflixで観た『カノジョは嘘を愛しすぎてる』とかいう映画があまりつまらなくて興醒めして、けれどこういう低俗でありふれた恋愛映画ばかりがくりかえし制作されるくらいには需要があるのだろうことにも辟易してしまって、なにか、抑えられない物欲や肉欲をつかのま満たそうとするためだけにそれらがあるように感じ、そしてそれらにひとなみ以上に不満を持つ自身のナイーヴさにいらだっていたのだということを、直接的に書いたものだ。

暗渠化した川のうえを歩く、
ゆるやかに蛇行する小径をあてもなく、いや、その径が誘おうとする街の消失した中心点を探りだそうと踏みだした、
わたしたちの、繊く、愚かな足、

 東京には大小たくさんの川が流れていたといい、江戸時代には田畑の上空を朱鷺の群れが舞っていたほどだとどこかで読んだことがあるけれども、朱鷺がいっとき日本から姿を消してしまったのとおなじように、東京の川の多くも埋められたり下水道に転用されたりし、川筋のうえに遊歩道が整備されて、あたかも小川のきまぐれな流路そのものを辿るかのように道もうねうねと蛇行しているので、容易に地面のしたを想像できたりもする。
 中野から転入した花小金井には石神井川の水源があって、家から歩いて五分ほど南下したあたり、小金井公園の北端にそれはあって、敷地に沿って東進し、遠く北区は王子駅の北東約一キロメートル附近で隅田川と合流している。
 それにつづく二連は、蒲団にはいっていざ寝ようとするとにわかにおしゃべりになり、あてのないおもい巡らしの波がやまずに、そのときに閃いたアイディアや詩の一行を、億劫がってメモしなかったがために、起きてからたびたび、あれだけ興奮するほどのおもいつきがなんだったのかを、ときには一日じゅうずっと考えつづけていることもあるくらいなのだけれども、忘れてしまったことがらをいくら憶いだそうとしても蘇ってきたりはしないし、憶えていられないことなら、さほどたいせつなことではなかったのだろうと自身を慰めようとするときの、あの苦々しいおだやかな頭痛にも似た感覚を書き留めようとしたものだ。そのために失われていった詩行は存外に多い。

覚めぎわ、夢のつづきを演じつつ、徐徐に現実へと合流するてまえで、またあの鮮烈な光景が、夢の裾をひきずりながら現れて、部屋の四隅に蹲りはじめた老婆の皺だらけの貌を曇らせた、

 目覚めてからも覚醒しきらない曖昧な意識のなかで、それまで見ていた夢のつづきを見ようとしたり、甘美であたたかなおもい巡らしの枝をのばそうと、目を瞑ったまま頭に浮かんでくることがらに意識を集中させるのだが、しかし意識ははっきりとしてきて、退屈な現実が疼痛のようにからだじゅうを浸しはじめるので、それらを中断させてベッドから起きあがり、生きるためにしなければならない最低限のことを、これもまた億劫がりながら遂行する。

ある詩人がいった、
街の衣のいちまい下の虹は蛇だ、
と、
動脈のうちを泳いで、
ゆりかもめが舞っている、
あの、
潮騒のからみついた土地へ、

 ここでの「ゆりかもめ」が新橋駅を起点とする東京臨海新交通臨海線の愛称であることはいうまでもない。

わたしの目のまえを、ドイツ語が歩いていた、長い坂を登りながらも、颯爽と、それとも、悠然と、とにかく、さまざまな単語を連結させた継ぎ接ぎだらけの体軀をゆすぶって、ドイツ語が歩いているのを見てしまったのだ、なにも驚くことはない、雑巾の端にたくさんの子音を縺れさせ、舌のおさまりどころを探ろうと、うわ顎の窪みに唾液を溜めて、大きく腕をふって歩くそれの、こまかく神経質な表面を、空転する視線、

 さて、二〇一六年は武満徹の没後二〇年にあたる年で、その年の一〇月一三日に東京オペラシティで催されたコンサートにいくために都営大江戸線西新宿五丁目駅からむかっていたさいに、山手通りで若い二人組とすれ違い、彼らの話すドイツ語での会話の断片がふいに耳にはいってきたのだった。なにを話していたのかはわからないし、ひっきりなしに横ぎっていく何台もの自動車がたてるさまざまな音や、風の音などにまぎれてすぐに聞こえなくなってしまったが、街を歩いていると、聞くともなしに聞こえてきてしまった会話を構成していたことばの断片がしばらく耳に残ることがときどきあって、それはもうことばのかたちをなしてはいないのに、その痕跡だけが、またなにかべつの会話を生みだそうとするかのように、きっと発話者のあいだで交わされていたものとはまったく違うことばになって頭のなかであらわれては消えていくのであるが、それはなにも外国語だったから印象に残っていたのではたぶんなくて、たまたま耳にはいってきてしまったということこそが契機となって、ことばをかたちづくっていた音のそれぞれが、自由に連結したり分離したりをくりかえしていて、街はそうした音で満ち溢れてもいるので、さびしさを感じる余裕もない。この回顧展で演奏された曲目のなかで武満が大岡信の詩に作曲した『環礁』(一九六二年)は、いまおもえば現代詩に出会わせた一曲であるが、ある雑誌で当コンサートの短いレポートを発表したなかでわたしは次のように書いている。

中学時代、この作品をはじめてCDで聴いたときの驚きはきわめて鮮烈なものだった。普段聴いたり唄ったりするのとはまるで違う、跳躍の多い旋律を持つ技巧的なソプラノ独唱は、当時のわたしにとってはひどくヒステリックでいたずらに不安感を煽るものだったが、それよりも二曲目の最後で、ほとんど絶叫するに「太陽/空にはりつけられた/球根」と歌うのには、少しくふきだしてしまいそうにもなりつつも啞然としたのだった。

 中学何年生だったかは忘れたが、ここで引用されている「太陽/空にはりつけられた/球根」というフレーズを聴いて、いまでは東京メトロ東西線九段下駅の発車メロディにも採用されている、爆風スランプの「大きな玉ねぎの下で」で歌われる日本武道館の屋根に乗せられた金いろの擬宝珠や、モスクワの聖ワシリー大聖堂などのロシア正教会の建築物特有の独特な形状の屋根を連想し、そうした玉葱型の太陽が青い空を背景にして燦爛と輝いているようすをすぐさまおもい浮かべて妙に納得させられたのをよく憶えている。その意味ではいくぶん具象的な詩句だと認識していたし、抽象と具象のはざまで宙吊りにされた詩的イメージが前景化され、ときには途端に興味を失ってしまうことがままある。ただこの詩行だけは、武満のメロディとわかちがたくつよく印象に残っている。

それともこの街を包囲する〈循環する風景〉から蒼く耀く体液を零し、あるいは消毒薬のにおいに脅かされた筋繊維にそって、アルミニウムの焰が涎を啜っている、

 ここでの「〈循環する風景〉」とは一柳慧のヴァイオリン協奏曲《循環する風景》(ないしは細川俊夫の管弦楽曲《循環する海》)からの引用で、これらの楽曲から想起されたというよりは、タイトルによってひきずられてきた、記憶のなかを自在に巡る都市の光景のなかのあらゆる事物、とくには臨海部に建つ工業地帯から流れでる工業用排水のメタリックなイメージや、煙突のさきにあがる焰のいろなどを書き留めている。

魚籠を透かして、
硫黄、
黒雲母の破片が塞きとめている街道を、
換気のために建てられた、
しろい、巨大な、
塔、

 中野にあった生家からはやや離れてはいるが、山手通りはそれでも馴染み深い道路でもあって、父や祖父の運転するワゴンやトラックで何度も通過したし、物心ついた頃からずっと、いつ終わるともしれないくらいの長い期間にわたって工事中で、Wikipediaによると道路の拡張や歩道などの整備が完全に終わったのは、二〇一五年のことらしい。中央分離帯には、山手通りの地下を走る首都高速中央環状新宿線の排煙塔が等間隔で建てられている。さきにも述べた東京オペラシティが建つ山手通りと甲州街道とが交差するあたりは、ふたつの通りのうえを何層にもわたって高速道路が立体交差していて、それらが徐々にできあがっていくのを、中野駅南口からバスに乗ってこのあたりを通るたび見あげたものだし、夜になると巨大な構造物が路肩のオレンジいろに輝くライトに照らされて、こども心に近未来的な都市の姿を垣間見せられるようで胸が躍るのだ。

白鷺、
緋鯉が群れて泳いでいる川に、
二羽の鶺鴒と、
陽にあたる翠龜、

 そうかとおもえば、家の近所を流れる妙正寺川には鯉や亀が棲息していて、鷺や鶺鴒などが飛びかっていたりもする。都市をつぶさに見ていけば、どれも人為的に持ちこまれたものばかりではあるけれども、また晴れた日にはいっそう生臭さを増すドブ川であろうと、そういうちいさな生命に出会える。そこを起点に父や祖父がこどもだった頃の、そのさらに昔のこの街の風景を幻視するのだ。中野区北西部に位置する鷺宮には、その名が示すとおりに、多くの鷺が棲息していたのだという。まだ自然が豊かだった頃の光景といまの街のそれとが二重になって見えてくる。

いよいよ湾岸の熱帯植物園に金星を沈め、地軸を糧にとある広大な墓地を鏡の裏に透かし見たあなたは、その日、あるいは土星の環にまたがったEquusの、剝がれ落ちるばかりの鱗を銀幕の皺のあいまに隠そうとして、傍らを通りすがった客のいないタクシーにむかって金魚鉢を抛げつける、もし、錯視の歪曲した光源をあきらかにするならば、黒豹がいま顎を乗せている長椅子に、ひとつの林檎をおいてさるだろう、

昨夜、
それも液化する寒暖計の、
秘かな夏へ、
さしだされた音符を棄てて卜えば、
ゆたかなはずの果樹も絶え、
しまいには、
星らしき星も、
実らない、

 都会の夜空はたしかに輝く無数の星々を見せはしないが、目を凝らせば金星や土星などの惑星や、夏の大三角形、冬の大六角形くらいは見える。わたしにはむしろ月のほかには数えるくらいの星しか輝いてはいない夜空のほうが親しいし、家々のあいまに見える新宿副都心のビル群の航空障害灯や、深夜のドライヴででかけたさきで見る夜景こそが星空なのだといってもいい。夜、ゆりかもめに乗ってお台場へむかうとき、車窓から眺められる光景の美しさ以上のものを、わたしはしらない。
 なお、杉本徹のとくに『ルウ、ルウ、』を読み触発されてこういうテクストを当時は書いたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?