《都市叙景断章》

わたしたちはもう、都市を失ってしまって――、


どこにもない街を、どこにもない風景の胃液が溶かしこんでいくそれらの、鎮静剤の効かない街路をすべるありきたりな恋愛映画の断片が、無惨に、というよりも、紙幣に集られた踝にうちこまれた高層ビル群の、たとえばその表情が、代替可能な無数の窓ガラスに反射しようとして、拒まれている、劣化した接着剤には少しの澱粉も浚われてはいないし、だからわたしは容易にすりぬけることができてしまっていた、透明な、燦爛に、安っぽい情景の、角膜を薄く削っていく、消費されてばかりの、きれいな、ありふれた、憧れを装った、紙幣、それか、肉慾――、


暗渠化した川のうえを歩く、
ゆるやかに蛇行する小径をあてもなく、いや、その径が誘おうとする街の消失した中心点を探りだそうと踏みだした、
わたしたちの、繊く、愚かな足、


忘れるほどなのだからたいしたことはないといいきかせ、無理に諦めようとはするのだが、一方、どうにかおもいだそうと躍起になる自分を抑えきれずにいて、街は、そういう寝具のなかの幻想に、躊躇いなく浸入しようとする、あるひとつの波、


寝入りばな、饒舌に話しはじめようとする頭が、そのときには、ひらめいたようになにか、鮮烈なイマージュが訪れて、書き留めようとしつつも億劫になってきてしまって、これだけ鮮明なのだから、しばらく経っても忘れないだろうと睡りにつき、


鯨浪、
湾内に潜む黯い影を呼び、


覚めぎわ、夢のつづきを演じつつ、徐徐に現実へと合流するてまえで、またあの鮮烈な光景が、夢の裾をひきずりながら現れて、部屋の四隅に蹲りはじめた老婆の皺だらけの貌を曇らせた、


それはほんとうにそこに流れていたのだろうか、赤く錆びの浮いた錨の隣には、苔むしたコンクリート製の古びた石碑が、そこにはなんと書かれてあったか、高架下の薄闇に馴染ませた視線をたばねてそこに、そわせてみる、


ある詩人がいった、
街の衣のいちまい下の虹は蛇だ、
と、
動脈のうちを泳いで、
ゆりかもめが舞っている、
あの、
潮騒のからみついた土地へ、


葉脈だけが残った、
晩秋の朽葉をひろって歩く、


わたしの目のまえを、ドイツ語が歩いていた、長い坂を登りながらも、颯爽と、それとも、悠然と、とにかく、さまざまな単語を連結させた継ぎ接ぎだらけの体軀をゆすぶって、ドイツ語が歩いているのを見てしまったのだ、なにも驚くことはない、雑巾の端にたくさんの子音を縺れさせ、舌のおさまりどころを探ろうと、うわ顎の窪みに唾液を溜めて、大きく腕をふって歩くそれの、こまかく神経質な表面を、空転する視線、


その街の――叮嚀に舗装された――甘皮を、指さきでひき剝がしてみれば、わたしたちのその手や脚のさきを蔽っている毛細血管を流れる稠密な――たとえばクリプトンの――気体が、あざやかな廃墟に埋もれてしまっていた図書館の、綿埃が堆く積もった書架に、ひんやりとした呼気を滲ませるだろう、植栽の――柘植や躑蠋の――しっかりとした葉のうえにも、雪は降る、


枕木をにぎわわせる一頭のハクビシンの背が、
黄いろい花を擡げた水仙の、尖った葉のわきを駈けていった、
……深夜、街燈の不躾なあかりのしたに蟬や蛾などの肥った影を認めるとき、乗用車の駆動音か、
それとも都市の鼓動が、
護岸工事のおこなわれていない川を目指して、
人家のつらなりに消え去ろうとする、


それともこの街を包囲する〈循環する風景〉から蒼く耀く体液を零し、あるいは消毒薬のにおいに脅かされた筋繊維にそって、アルミニウムの焰が涎を啜っている、


魚籠を透かして、
硫黄、
黒雲母の破片が塞きとめている街道を、
換気のために建てられた、
しろい、巨大な、
塔、


幹線道路を走るトラックのまぶしいライトがしばしば点滅するように、象の腐敗をまぬかれたからだに杙をうち、凍った郵便うけの冷たい鱗をきらめかせて、太陽がその仕事を畳みこむ、そうでなくても蔦の繁った薄黯い都市の洞に、羽蟻の行軍が潜んでいる気配ばかりがただよって、油蝙蝠のゆらめきが、水銀が溶けだした下水溝に手紙をもたせ、ひとのいない公園の鞦韆に、ひときわ時計の文字盤が、俤を落とし損ねていて、給餌におとずれた猫の、牛乳に浸された椿の枝、裸の公孫樹がさえざえとして、睡りは深い、


白昼、
あきらめのわるい踏切に、
路線バスが、
カシオペア座を背負っている、


地下へ、
雨露がもたらした湯の花、


自動販売機の輪郭が、手帖に書きこまれた明日の予定を滞らせる、それは明晰夢の予兆のうちにふたたび印字される風景の、音をともなった瓦解におもわれて、巨大な球形のガスタンクにうさぎの薄片がつめこまれる、――湿原は高架橋のしたを飛びかう燕に啄ばまれて、その日の景観を塗りこめるために、塵を燃やす、


白鷺、
緋鯉が群れて泳いでいる川に、
二羽の鶺鴒と、
陽にあたる翠龜、


いよいよ湾岸の熱帯植物園に金星を沈め、地軸を糧にとある広大な墓地を鏡の裏に透かし見たあなたは、その日、あるいは土星の環にまたがったEquusの、剝がれ落ちるばかりの鱗を銀幕の皺のあいまに隠そうとして、傍らを通りすがった客のいないタクシーにむかって金魚鉢を抛げつける、もし、錯視の歪曲した光源をあきらかにするならば、黒豹がいま顎を乗せている長椅子に、ひとつの林檎をおいてさるだろう、


昨夜、
それも液化する寒暖計の、
秘かな夏へ、
さしだされた音符を棄てて卜えば、
ゆたかなはずの果樹も絶え、
しまいには、
星らしき星も、
実らない、

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