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「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」

相田みつをさんの言葉。
この意味を、私はどれだけわかっていただろうか。

そんなの当たり前!と思っていたような気がするけど、ほんとにそうかな。

* * *

美味しいものを食べたり、お友達と楽しい時間を過ごしたり、欲しかったものを手にしたり、新しい景色にわくわくしたり、そんなこと。

私はなぜかそれに後ろめたさや罪悪感を覚えてしまうんですよねー。

例えば旅行のことを母に言ったら『行きたかったわぁ』とか言うと思うんです。
ただそれだけのことなんだけど、一緒に行かなかったこととか、あまりひとりで遠出しないタイプの母に対するチリチリした感じとかがあって。

何なんでしょうね、そう思ってしまうのって。

例えば事故で死んだ後輩は、スキーが大好きで、才能もあってこれからを期待されていた子だったんですけど、夏のある日突然死んでしまいました。

彼が待ち望んでいた雪が降って冬になって、私は生きていて思う存分スキーができる環境にいた。
それなのにしんどいとか思っちゃいけないんだーとか。
私には才能もないのに、彼が死んで私はヘッポコながら最高のバーンで滑ってるということに対する申し訳なさとか。

勝手に背負いこんでるんでしょうね。

『しあわせはじぶんのこころがきめる』のなら

『しんどいと思うこともじぶんのこころがきめてる』のかもしれないなぁと思います。

濁流に飲み込まれたみたいに息ができなくて、苦しくて苦しくてどうしようもないような時も、顔をあげれば救いの手は伸ばされているのに、助けてほしいとも思えない、そんな時がありました。

苦しいことから抜け出したら、幸せだったこととかも全部手の中からこぼれていってしまいそうで、怖くて。
だからあえて苦しいまま、そこに佇んでいたような気がします。私の場合は、ですけど。

いまも、過去に引き戻されそうになる時はあります。
どっぷり浸ってしまうこと。

でも、そこでどうするかは自分で決めたらいいと思うので、気力がなければ気が済むまでうずくまっていたらいいし、そこから抜け出したくなったら、その時は助けを求めればいいと思います。

濁流で溺れてると思っていたけど、実は足が着くくらい浅かったということを教えてもらうこともあるので。

深い深い沼に沈んでいったら底に救いの手があったとか。

孫悟空の話を思い出しました。
觔斗雲に乗って高い高い山のてっぺんまで行って、どうだ!って言ったらそこはお釈迦様の指先だった、みたいな。

しんどい、苦しいってもがいているのも全部お釈迦様の手の中かもしれないです。

XJapanのhideの曲で【ピンクスパイダー】というのがあります。

その歌詞に「君は空が四角いと思っていた」という部分があるんですけど、閉じ籠ってPCだけを見ていたら、空は四角いと思ってしまうかもしれない。
その世界で完結してもいいけど。
でも一歩外に出て、空は広くて暖かいんだということを知ることもできるんですよね。

その一歩を踏み出すのかどうかは、やっぱり自分次第で…。

そして、周りの人がどんなに助けようとしても、本人が『助かりたい』と思わなければ助けるのは難しいです。

もし「苦しいな、しんどいな」と思っていて、そこから抜け出したいと思う気持ちが少しでもあるなら、『助けて』って言ってみてほしいです。

冒頭に戻ります。
私は後ろめたさを感じることに「なんだかなぁ…」と思っていて、でも自分ではうまく咀嚼できそうにないので、助けを借りようと思っています。

具体的には【ファミリーコンステレーション】というのを受けてみたい。(受ける、という表現でいいのかな?)

いまやっているところは少ないみたいですけど、これは体験したいです。

それから、こういうのも↓見てます。
見る気力がある時は。

深く沈んでしまいそうで、その思いから抜け出したい時に絵本を読むこともあります。

https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=5969

声に出して、自分に読み聞かせてみる。
丁寧に読んでる間は他のことが少し遠くになるし、読み終わる頃にはピークが過ぎていたり。


ね。

いろんな方法がある。

自分の気持ちに蓋をして、偽るのでもなく 。後ろめたさも罪悪感もなくならないけど、それもひっくるめて、

しあわせはいつもじぶんのこころがきめる

私が幸せでありますように。
あなたが幸せでありますように。

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