骨髄バンクから適合通知が届いたこと

1年ほど前、家に帰ると、オレンジ色の封筒が届いていました。

差出人は日本骨髄バンク。封筒には「大切なお知らせです」と書かれていただけだけど、骨髄バンクから届く「大切なお知らせ」なんて、ひとつに決まっている。頭が真っ白になったわけでも、喜びでも、ショックでも不安でもなく、ただ、その時が来たんだ、という感覚がありました。予想のとおり、封筒のなかには「重要なお知らせ」という紙と、「ドナーのためのハンドブック」、返信のための用紙と封筒などが入っていた。

「重要なお知らせ」という紙には、「コーディネートのお知らせ(適合通知)」「今回のあなたのコーディネートは、骨髄または末梢血幹細胞提供についてのご案内です」「ドナー候補のおひとりに選ばれました」「ご提供に向け詳しい検査や面談を希望される場合は、同封のアンケート用紙にご記入のうえ、7日以内にご返送ください」といったことが書かれていました。

私はそのとき、たまたま旅行に行っていて、7日の返信期限を過ぎてしまいそうだった。あわてて「初期コーディネート担当」という電話番号に連絡し、遅くなってしまったけれど、提供に向けて動きたいです、ということを伝えて、次の日にはアンケート用紙も送りました。

「骨髄移植」という言葉を初めて聞いたのは、小学生の頃に見ていた「ひとつ屋根の下」というドラマを通してだったと思います。

小学6年生のとき、塾の先生(別のnoteに書いたK先生)がよく「献血は人のためになるのに、お菓子やお茶をたくさんくれるので、ぜひやるといい」と話していたことで献血にも興味を持ちました。献血とか、ドナー登録とか、臓器提供とか、将来しようと、ぼんやり思っていた気がします。

初めて献血をしたのは、大学に入ってから。友達との待ち合わせまで時間があるときにふらっと近くの献血ルームに行ったり、大学のキャンパスに来ていた出張献血バスで、ということもありました。社会人になってからは、時間がなくなってしまった。あと、自分の血液型と提供できる血液の量が、需要とあわなくて…ということもありました。

骨髄移植のドナー登録については、いつしたのか、覚えていません。ただ、献血を大学生の頃にしかしていないので、少なくともその時期だったのは確かです。親には特に言いませんでした。

私は、自分の性格があまり優しくない、人に親切じゃない、ということがちょっとしたコンプレックスだったので、どこかで、いい人になりたいと思っていました。

小学校の頃から17歳くらいまで、お医者さんになりたいという夢があったのも、きっと影響していると思います。自然に、そういうこと、に興味はありました。

何より、『1万分の1の奇跡』という、自身も白血病で骨髄移植を経験し、日本骨髄バンク設立のために力を尽くした実在の女性を描いた漫画を、高校生のときに読んでいたことが大きかったと思います。その漫画にあった、ドナーとなった男性の、この言葉がずっと心に残っていました。

怖くないわけないじゃないですか。(中略)…でもね、子供たちに「お父さんは人の命を助ける」っていったとき、キラキラした目でわたしのことを見たんですよ。「お父さんカッコいい」って。もし自分の子が白血病になったとしたら、もしこの手にその命がかかっているとしたら、握りつぶすことなんてできない。

両親には、骨髄バンクに登録していたこと、適合通知が来たこと、前向きに考えていることを伝えました。親はあまり、こういったことの知識がないので、最初は「大丈夫なの?」と言われました。医療行為なので、リスクがまったくないわけではないことと、すぐに決めなきゃいけない・すでに決まっているわけではないことを伝えて、納得してもらいました。

一方で、コーディネートの担当者には、仕事が忙しくて、時間が取れないかもしれない。素直にそう伝えました。担当者にも「そう言う方は多いので、仕方ないです、無理しなくていいですからね」といったことを言われました。

ドナー候補は、候補者の選択の自由を確保するため、1人ではありません。本当は1人だという場合も、ありえなくはないのかもしれないけれど、「あなたしかいないんです」と、言われることはありません。

私は、心のどこかで、諦めるしかないだろうと思った。やってみたい。やってみたい、なんて気持ちで手を挙げていいものではないんだろうと、わかっていたけれど、やってみたい、という気持ちは、やっぱり大きくて。同じくらい、不安と恐怖も。そして、やってみたい、と思う自分に対する、嫌悪感だってあった。

ちょうどそのタイミングで、退職することになって。担当者に、時間ができるので、その点はクリアになりました、とお伝えしました。だけど、私は、その時期に少しだけ、退職の際に診断書を書いていただいた精神科の病院で、睡眠導入剤と安定剤を処方してもらっていて、少しだけ、服用していました。

精神科系のお薬は、骨髄移植にも影響することがあるそうで、ドナーになれません。結局、そのまま、コーディネートは終了しました。

その話が終わったちょうど数日後、私の親戚が、骨髄移植を目指すかもしれない、という話を母からされました。私の伯母です。年齢は四捨五入して80歳。白血病ではありません。高齢なので、そもそも骨髄移植という手段を取れるとしてもぎりぎりで。

私はそれを聞いて、もし、私が骨髄移植をした相手が、80歳の、おばあちゃんだったら、と考えてしまった。その自分を、醜いと思う。今も、思っています。

ただ。骨髄の採取まで、何カ月もかけて、自分の健康に気を配り、何回も何日も仕事を休んで、会社にも同僚にもクライアントにも、いろんな人に、それなりの「迷惑」をかけて、自分だって、それなりに身体的な苦痛を味わいはするだろう。体に傷が残ったりもする。ドナー側が、万が一、ということだって、可能性はゼロではないです。

そうして、もし、移植がうまくいったとして、相手は、あと何年、健康に生きられるのだろう。そう、思ってしまった自分を、おぞましいと思いました。ドナーになると、同意があれば、相手の性別・年齢・大まかな居住地までは教えていただけるそうです。それが、”私の伯母のような人”だったら。

私が、想像していたのは、私より若い、幼い、小さな命が、私の身体の一部を糧に、元気になって、幸せに生きてくれる、そういう光景だった。そのことを、私は否定できません。

もしもう一度、いつか、オレンジ色の封筒が届いたとき、私は、私は、どうするんだろう。ドナーになりたいと、言えるだろうか。私に、人の人生を、決める権利なんてない。私が、誰を生かすかを、選ぶ権利なんてない。権利もないし、その力ももちろんないけれど、私は、すべてを等しく受け止められるだろうかと、考えるだけで、怖いんです。

骨髄移植のドナーになったとして、相手がその後、元気になるかはわかりません。移植を受けた人と、提供者は、その後1年以内にお互い2回ずつ、手紙のやりとりが許されています。もし、手紙が来なかったら? 来たとしても、そこに、書かれていることが、もし…。想像して、私は、怖くて、耐えられなくなった。

適合通知が来たことを話したとき、母は、「ぜひやりなさい」「人助けをしなさい」とは、言わなかった。私は、それに救われました。漫画の台詞と同じです。「もし自分の子供が”ドナーになって、何かあったら”」――母は、それを恐れてくれた。どこかの誰かより、娘の健康を案じてくれました。その母を、責められる人がいるだろうか。その母の言葉で、「ドナーにならなくていい理由ができた」と、安心した私は、冷たい人間だろうか。

ドナー登録は、したままです。一度候補者になっていることと、薬の服用を理由に候補から外れているので、しばらくはコーディネート対象にはなりませんが、しばらくすれば、また候補者のひとりになることがあるかもしれません。

自分が、誰かを助けてあげられるかもしれない、なんて、なんてずうずうしいんだろう。私は、誰かのヒーローになれるかもしれないだなんて、なんておこがましいことを考えていたんだろう。

だけど、誰かを助けたい、そんな優しい、誰かの思いがなければ、消えていってしまう命がある。助けられるかもしれない命がある。

献血ルームでは、優しいスタッフさんたちが、びっくりするくらい優しくしてくれます。ソファがあって、お菓子をくれて、飲み物もタダで飲めて、本や漫画を読めたりもします。そうやってリラックスして、ただ血を抜かれている、その先には、生きるか死ぬか、闘っている人がいる。

きっといま、初めてドナー登録をする、という人が増えているんだろうと思います。その仕組みについては、日本骨髄バンクがしっかり案内を出しているので、ここでは書きません。ドナー登録は簡単です。血を抜かれて、いくつか自分について書く、それだけです。

そうして、適合通知を受け取った、ひとりの人間が、なにをどう思ったか、感情だけを書きました。どう受け取られるか、不安だけれど、これが正直な私の体験です。

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