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チップ文化


皆さんこんにちは、久しぶりにパン屋のサッちゃんです!
今日は日本では馴染のないチップについて、書いてみようと思います。

最初に、私はチップ文化推奨派です。
自分もチップをもらうことも払うこのもあるんですが、チップは分かりやすい、お客さんからサービス提供者への応援です。
この応援は実際のお金の価値に気持ちがのっているので、ものすごく励みになります。

パン屋を初めて2年目のこと、まだまだ発展途上の私に当時6歳のj君が彼のポケットから出してくれた、クシャクシャ1ドル札のチップは今も私の宝物です。
どのサポートも応援も掛替えのない有難いものだけれど、あの1ドル札はやはり特別で「畜生!」と思うことがあっても、怠け心がムクムクと顔を出しても、あの1ドルを見て何度も励まされてきました。

皆さんは「チップ」聞くと、どんなコトをイメージするでしょうか?
「いくらくらい上げればいいのか、分からない」
「失礼はしたくないけれど、払い過ぎもしたくない」
「相場を知りたい」
「払わなくていいのなら、払いたくない」

渡米した当初、私のチップに関する思いはこんなところでした。
それから5年が経って、こちらのチップ文化にもまあまあ慣れていましたが、最近改めてチップについて考えることが増えました。
何処もかしこもチップを請求してくる、そんな風に感じることが増えたんです

以前はチップを払っていなかった買い物でも、ここ数年でカード払いのサイン画面にチップ額を選ぶボタンが表示されます。(分かり難かったらごめんなさい)
要は、チップを「払うかどうかの選択」がなくなって「いくら払うかの選択」になってるんです
こうなるともはや「チップは気持ち」なんていうのは建前でしかなく、ほぼ義務のような状態です。
「もらうのが当たり前」のようなこの状態がなんだか、寂しいなぁと感じていたところ、先週こんなお客さんがいました

「これは、君がもっとパンを焼けるために」
そういって$1札をチップでくれたんです。久しぶりに来た年配の男性でした

マーケットでチップをもらうことは多くないけれど、アメリカのお客さんはチップを払い慣れてるので1~5ドルのお釣りを「取っておいて」とくれることが多いんですが、今回のような気持ちがのっかったチップはパワーがあるなぁと感じます。
サービスを受けとる側も、チップを受け取る側も、感謝や思いやりを忘れずやり取りが出来るなら、チップという文化は本当に素晴らしいなと、改めて感じた先週のマーケットでした
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます!



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