染みついた外見主義への気づきと、感性を閉ざさないこと。
最近、小学校4年生の子との会話で、こういうことがありました。
子が「あー、やだなあ。つめ、のびちゃった」とつぶやいていました。爪を切る行為がめんどうできらいなんだそうです。その手元をみると、スラリとした爪が視界に入り、わたしは「○○ちゃん、つめ、すごくきれいだねえ」とふと言いました。
すると、「きれいかきれいじゃないかで、ひとの爪を見たことない!きれいじゃない爪があるん?」と返されます。それを聞いてわたしは「アアア゛…!!!」と後悔します。しごく正論。
…っていうことがあったんですね。
最後のコマにも書いたのですが、
・「きれい」って言うと、「ということは、きれいじゃないものがあるんだ」と翻訳されちゃうので肯定表現も難しいぞグヌヌ
・でも正直なところ「きれい」って感じた自分の気持ちを表現してはいけないのかなあ…グヌヌ
の2点でグヌヌヌだったんですよね。
もしかしたら外見主義(ルッキズム)とまでは言わなくてもいいことなのかもしれません。でも、なんというか、こういう容姿への褒めが「では、こうであってはいけない」みたいな方向に自然と駆り立てさせてしまうんだな、と思って、すごく反省したんです。
変えられない見た目のことを言うのやめよう、と思いました。ほんと。日々の言動で自然と外見のことについて言う習慣が染み付いてるんだなと反省しました。
個人的には、「容姿とか、本人が変えることのできないものに関して、声に出すのはもうやめよう」「ネイルとかファッションとか、本人が好んで身につけているらしきものに関しては素直にいいなとおもう気持ちを言おう」という結論には達しているんです。で、そうするつもりです。
でもですね、正直、わたし、動物の身体とかめっちゃ綺麗って思っている節があって(馬の太ももの肉付きがめっっっちゃ好き)(鹿のあごのラインとかも好き)、人間の身体もね、きれいだなって思っているところがあって、正直すごい好きなんですよね!!!????指のね?爪のね?ラインがね?ほんとに美しいなとおもったんですよね?ちなみにキノコのラインとかも好きでね?フェチですね??
ということで、この気持ちを表現することはできないのか…というもどかしさも同時に感じてしまったんです。
このことを、筌場彩葵(うけば さき)ちゃん( https://twitter.com/sakichaaan1123 )に相談したら、こんな回答がかえってきました。さきちゃんはたまにルッキズムのこともSNSで投稿していたので、話してみたかったんです。
「"自分は"それが好きだと思ったよって言えばいいんじゃないですかね〜。自分がそう感じる、その感性は否定したくないですよね」
と言われて、「ああなるほど」となんだかストンと落ちました。そうだ。そこまでは否定しなくていいんだ。
一方で、それを聞いて気がついたこともありました。やっぱりわたしはあの時「つめ、すごくきれいだねえ」と言ったあの言葉は、自分が「きれいだなあ」と純粋に思う感性と「一般的にこういう爪がきれいだとされるのだろう」というなぞの呪縛のふたつが、ないまぜになっていたな、と。
自分が純粋に感じたことであれば、やっぱりさきちゃんが言うとおり、主語を自分にして丁寧に説明していたと思うんです。「自分はあなたの爪のここのラインが綺麗だと感じる」って丁寧に伝えていたはず。でも簡単に、いろんな説明をはぶいて「つめ、すごくきれいだねえ」と表現したのは、外見にかんする一般論が混ざり込んでいたからだろうと思います。
これが馬だったら、馬を見て「この太ももきれいだねえ!」って言っても伝わらないってわかっているから、「この馬の太もものこのラインの肉付きが好きなんだよねえ」ってちゃんと表現していたと思う。
だからわたしはあのとき、子に自然に放ってしまったあの言葉にひそむものに気付き、反省したんだろう、と。
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