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#58 ピントを合わせる力についての考察。 〜拝啓3年前のわたしへ

今日は3年前のわたしへ

このシリーズは、わたしが過去の自分に対して、手紙を書くように、自分の気づきや大切にしたいことをしたためていく、100日note投稿チャレンジです

ピントがあうについての考察。

わたしは生まれつき、かなり強めの遠視と乱視で目が悪い。のだけれど、こどもの頃、星が見えていたりしていたので、目が悪いことに親は気づいていなかったそうだ。今でも、メガネを外しても生活できなくはない(シャンプーの表記が一番見えなくてつらい)のだけれど、毎回ピントを合わせるのにがんばる必要がある。集中してどこかに照準を合わせるのだ。
これは、メガネやコンタクトを使っていてもそうだ。他の人はどうなんだろう。多少なりともみんなあるのだろうけれど、その度合いが違うのかなと思っている。

今日、娘のプールについていきながら、ジムのお風呂に入りながら、湯気がたちのぼって消えていくのをぼんやり眺めながら思った。

ピントを合わせるっていろんな点で大事そうだな、と。
なんでわたしのピントは合わせにくくできているんだろうかと。

普段の自分が物事を考えている頭がある中で、どのへんの項目について話がされているかによって、ピントを合わせる・合わせないが生じる。

今、書いていても、焦点をぼんやりさせてしまうと文字は滲んで見えている。ので、ヨイショと気持ちを立て直して凝視することで文字が見えている。この焦点を合わせるのが、多分わたしは生まれつき人よりも遅いのだと思う。

ぼんやりとしていてもいいのだけれど、ぼんやりしていると見えるものも見えてこないことがある。見ようとすると少し、肩肘を張って眼の周りのいろんな筋肉を動かして焦点を合わせることができる。

焦点を変えるためには、例えば、鼻の前に指を一本立てて見ようとすればその位置が見えるようになるけれど、何も目印がない中で焦点を変えるのは難しい。

これは、考え方とか、抽象度の行き来、解像度の高い低い、などについて、視点を合わせようとする時にも同じような労力がある気がした。
わたしが自分とは違った知見を持った人にアドバイスをもらうと、「それってどういうこと?」と思うことがある。これは、相手の抽象度がいまいちわかっていなかったり、その話が構成されている他の情報がなかったりすることによって起きている。
そのために色々聞いていくと、なるほど、わたしの頭の中にある、この考え方と一緒の位置にある話ね!とわかったりするのだけれど、こういう作業はいちいちピントを違うところに合わせるようで難しい気がする。

で、けっこう最近は人のピントについて考えることがあったり、自分自身のピントを別の場所に合わせることが増えたりして、いろんな物事の捉え方が変わってきたので、ピントを合わせるっておもしろいなって思ったのだ。

おそらく、自分がこうなりたい!みたいな目指すものがあったときに、そう思っているものにピントが合っていないと、実際にはぼんやりして、わかったようでわかっていないのではないだろうか。

今回感じたことからの結論は、ぼんやりもいい。ピントを合わせてもいい。ただ、わたしの身体はピントを合わせることに最適化されていなかったんだな、と思うと、ピントを常に世の中的な正解に合わせようとしすぎる生き方は、慢性的に肩が凝るのは当たり前なのかもしれないと思った。わたし的にピントが合っているところはどこなのか、ぼんやり見えるからこそいいことはなんなのか、そこをもう少しゆるりと意識したいと思った。


逸れるけれど、一言。
それにしても、「見える」の度合いの違いについては、他の人の見え方を体感することはできないから面白いなと思う。他の人はどれくらいピントを合わせることに苦労するのだろうか。わたしみたいに元々目が悪い民は、老眼になるとどんな影響を受けるのだろうか。同じタイプの人が周りにいないから謎がいまだに多くて不思議。
今日は徒然なるままに書いたパターンになりました。ちゃんちゃん。

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