Mike Nelson "Sounding Off"
by Patrick Langley from Art Review
テートで、友人と私は錆びた機体や静止した油ぎった機械で構成されたマイクネルソンのインスタレーションの合間をふらついていた。展示は哀愁の様相を帯びていた。——終戦後の英国の歴史のその重さは廃物置き場、工場の内臓部の摘出とそれらが支えた仕事から再生利用された産業物のオブジェクトによって創り出された——
しかし根幹から主軸へかけて銀糸で紡がれ、ラスのなかで微かに震えているはずの蜘蛛の巣は見られなかった。
私は思った、
ネルソンは無名の蜘蛛のチームと共同制作し、彼らはハロウィンのような腐敗物にまみれた展示物をか細く(spidery)勤務時間超過しながら磨いているのか?
私はとある、ネルソンと働く知人にメールを打った。
”ああ、そう訓練しているよ。”
と返事をよこした。
”そのうちにスラウでもやる予定だ。”
我々の笑い声が部屋に消えた。ホールは騒がしかったがテートのデュヴィーン・ギャラリーは教会のように吸収力のある静寂さがあり、ノイズはその輝きの中に立ち上がっては消散し、空間を曲って溶け合い、エコーとして巧妙に処理された。私はシスティーナ礼拝堂を想った。
おしゃべりな多数の観光客を鎮めようとしてイライラしたセキュリティガードが
”Silencio!”
と2、3分おきに叫んで彼自身がその瞬間に禁止事項を破っていた。
テートでは休みない群衆と静寂な作品とのコントラストがより哀しさを感じさせる作用を生んだ。
悪魔的な製粉期の立てる低音が、美術館の常連たちの足を引きずって歩く足音によって消されたウィリアム・ブレイクの”エルサレム(1804)” ——英国の’別の’国歌の初版はたった数部屋先で行われている芸術家の詩の展覧会の中にあった——を強く非難する。
他の英国の遺産から再利用された破片が吊るされた出口を超えた。
それは”Long May They Reign”(彼らの治世が永からんことを)というフレーズがペイントされ、ユニオンジャックでフレームされているその飾り板は擦り切れ、屋根裏部屋の奥にあるようななりをしている。
英国の美化された過去の祈りが、いかに現在のその衰えへの関心を描いたかを思い起こさせるものである。
日が暮れて、我々は北の川に沿ってロンドンの中心へぶらぶら歩いて行った。
ウェストミンスターの近くで叫び声を聞いた。そこにもまたユニオンジャックがあり、肩をもたれかけプラスチックのポールから羽ばたきをしていた。
デモ行進の先頭でボンバージャケット、スキニージーンズ、ドクターマーチンのブーツに身を包んだスキンヘッドの男が’England’と派手に飾られた聖ゲオルギウスの十字をはためかせていた。
抗議は国の将来を憂いたものだった。では何故彼は1980年代のネオファシストのコスプレをしているのか。
他の抗議者はiPhoneをメガホンとして手に持ち、行進のあいだ録音したGod Save The Queenを流していた。小さなスピーカーとビリビリした音の増幅のコンビネーションは、のろのろと進む英国国歌にガラクタの手回し蓄音機のレコードのような、ぼんやりした感覚を与えていた。
ネルソンのインスタレーションの列はあの先日の品位を落とされた、ぼんやりしたあの録音に沿って群衆が歌った歌から歪めて伝えられたエコーに立ち戻らせる。一瞬自分のいる時間がわからなくなるような思いがした。ほんの少しの間(本当に少しの間、しかし心からー)自分が何世紀にいるのかわからなくなったのだ。その国歌は帝国の過去の郷愁や、現在の愛国的な祝賀に捧げるような詩は見当たらないのだ。
短絡接続でできた歴史の機械装置のようで、男がもったメガフォンは違う時代のラジオバンドから音をひろってきたかのように聴こえた。空襲の時のロンドン、アンティークのスピーカーを通して鳴り響く襲撃のサイレンと、雑音の多いワイヤレスに乗るプロパガンダ。音楽的な降霊会のようにも聴こえる。
何がこうも動揺させるのかというと、ある程度だが、私自身の政治的な知識や位置を反映させているからだろうと気づいた。しかしどれほど力強い音でその時間が接続から外れたようなあの感覚を呼び起こすことができるかについても何か言えるだろう。
現在にも侵入する過去の残忍な効果はデリダの馮在論によって説明され、よく音楽と関連づけられた。
私はケアテイカーの音楽を聴くことによるそのセオリーとマーク・フィッシャーの土葬に関するブログを読むのに夢中になった。——しかしそれはシェークスピアのハムレット(1609)をキューブリックのシャイニング(1980)に当てはめていた——
この二つの幽霊の話の中でより最近の方の話では、ジャックニコルソンがおしゃれな女の子と黒いタイをした男のいる美しく飾られたグランドホテルのホールの中に入り込んでいる。バックで心地よい30年代のフォクストロットが流れるが、それはかなり遠くこだまを繰り返し、エコーとして処理され、まるでテートでの我々の笑い声のようだ。
生と死、現在とある時間の間の幽霊のような領域-いずれジャックがその一部になるようなもの-で宙ぶらりんになる幽霊ではない群衆においては、何が不気味なのか。
過去-少なくとも理想化された一つのバージョン-、は彼にとって魅力のあるものだと証明し、
彼はそこにいたいという彼自身の強い願望によって怒り狂った。
もしネルソンのインスタレーションがもう機能を果たすことのない機械の死の静寂を、何を失ったか思い起こさせる憂鬱な装置として扱ったのであれば、デモ参加者は死に切っていない過去を召喚するものとして音を使ったのだ。ただあの歌のためだけであったのならば、彼らの成功だっただろう。
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