見出し画像

2011年に失ったもの【3】

母が入院する病院の個室に泊まり込み、母のオムツを替え、夜中に何度か起きて「痰を吸いとる機械」を使って、眠っている母の口を開けて痰を吸引する日々が続きました。
数時間おきに痰を吸引しないと呼吸困難になって死んでしまうので、痰を機械で吸い取るのですが、こればかりは昼間だろうが夜中だろうが24時間続くのです。

オムツを替えることも、夜中に何度か起きることも、私は3人の子育てでめちゃくちゃ経験していたので慣れたものでした。
自分に子育ての経験があって良かったな、とその時は思いました。

介護を起因とした不幸な事件のニュースを見聞きするたびに、あの時の事を思い出します。

育児と同じように、介護は「苦行」です。

生活の全てにおいて、自分よりも「弱い」「24時間手をかけなければいけない」他者を優先させ続けなければいけません。
自分よりも弱い他者のために、自分の24時間の全てを捧げなければいけません。
あえて「他者」と書きますが、自分の血縁たる親だろうが子だろうが「他者」は「他者」です。自分じゃない人間なのだから。
自分じゃない他者のために24時間を生きることは「苦行」です。
育児や介護を「苦行」と呼ばない事のほうがおかしい。と、私は両方を経験して思います。
ただ、育児ならば、その子どもの将来という「未来」があるけれど、介護に「未来」はありません。
介護の「未来」にあるのは「死」だけです。

さて。

少し話を変えます。

何故母が、大きな病院の広い個室で、専門の看護士をつけた「終末医療」を受けることができたのか。という話をします。

母は、子ども2人を産む前も後も、ずっと「自分で稼いで」いました。
昭和時代の九州ではかなり珍しい「フルタイムで働く兼業主婦」でした。
けっこうな額の退職金も、暮らすには困らない年金も貰い、悠々自適の老後を送っていました。

母は、フルタイムで働き「自分で稼いだ」お金を「自分のため」にめちゃくちゃ使っていました。
私が小学生の時「文化未開の地である佐賀にあっても上質なお芝居が観たい」と仲間を集め、東京にある有名な劇団を佐賀に呼ぶ演劇振興団体を作り、文学座に掛け合って杉村春子を佐賀に呼びました。
私が小学生の時に初めてみた舞台は杉村春子の舞台でした。

ちなみに、小沢昭一を佐賀に呼んだのも、母が所属する団体でした。
私は当時中学生でしたが「小沢昭一先生はセーラー服が好きだから」という理由で、カーテンコールで制服を着て花束を渡す役目を担わされました。
「なんでこんなオッサンに」と思いながら小沢昭一に花束を渡すと、小沢昭一は私にチューしてきました。奴は唇を狙ってきましたがとっさに避けました。が、ほっぺにチューされてしまいました。

おぇぇぇ~~~。

ファースト・キスの相手が小沢昭一。

今では「すべらない話」のネタにしていますが、もうその時は最悪の気分でした。

その後は「自分で稼いだ」お金で高い着物を買い、日本舞踊を習得して、名取の免状を取り、自宅で日本舞踊を教えるようになりました。

とにかく芸事が大好きで、かつ読書家でした。
本棚に入りきれない本が押し入れに入っていました。
私が夜寝る前にトイレに行って茶の間を見ると、そこにはいつも本を読んでいる母がいました。
公園に遊びに連れていってくれるのはいつも父で、母は一度も遊園地や公園には来ませんでした。
でも、美術館や博物館や映画館にしょちゅう連れて行ってくれました。
いや、「連れて行ってくれた」のではなく、自分が行きたいから仕方なく子連れで行かざるを得なかったんだろうなと、今となっては深く理解できます。

そういう母でした。
最期まで好きにはなれなかったけど、とても感謝しています。
私が音楽にのめりこんだのは、紛れもなく母の影響です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?