悲しみはわたしを照らす
こんにちは、さこです。
今日はQUANTAurbanretreatの中のプログラム、MOTOKOさんのエネルギーワークでした。
受けたてホヤホヤ、移動の電車の中で書き始めました。
去年は単発ではじめてエネルギーワークを受けました。その時の体験はとても素晴らしく今回はどのような感覚になるのか楽しみにしていました。
去年の体験を記事にしていました。
去年と同じ位置のベットに横になり呼吸を整えます。
去年はすぐに夢の中にいるような感覚になり、沢山のヴィジョンが見えました。
が、今日はなかなか集中できない。
思考がよく働いていましたが、それも静かに観察するようにはしていました。
しばらくして出てきたヴィジョンはモアナみたいな南国の少女。
その子が私なのか、一緒に遊んでいるイルカが私なのかわからなかったけど、足はヒレのようで海の中をスイスイ泳いでいました。
新婚旅行で行ったニューカレドニアの海や出会った人達を思い出していた。
またヴィジョンが途切れる。
そしたら次は『悲しい』という感情が湧いてきた。
悲しい、悲しい、悲しい…
どんどんその声は大きく感情的になっていく。
実際に『悲しい』と声に出してみた。
でも、そんなに悲しいのに自分事に感じない。いつの悲しみ?子供の頃?ずっと貯めてきた悲しみ?過去生の悲しみ?
どれもピンとこない。悲しいという感情に苦しく涙も出てくるのに客観視し、分析してる私がいる。
1時間経って、10分の休憩が入る。
トイレに行きたいなぁと思うも、悲しくて悲しくて立ち上がれない。悲しみはどんどん湧き上がる。
ブランケットを頭までスッポリかぶって胎児のように丸まってシクシク泣いていた。
休憩が終わり、引き続きいつの誰のかわからない悲しみを味わっていた。思考も働く。
ひとり置いていかれるような…?大切な人を亡くしたような…?何にそんなに悲しんでいるんだ。
そしたら、その悲しみの主が突然わかった。
それは、私の次に母が妊娠した子だった。
家庭状況の事情で産まれてくることのできなかった弟だか妹。
その子の悲しみだ。
私には兄と弟がいる。弟の間に妊娠したけど、産んであげれなかった子がいると聞いたのはいくつの頃かは忘れてしまった。
が、それなりに衝撃があったのだろう。
母は『悲しかったけど、その子が産まれていたら弟はいなかったかもね』と話し、どうしようもなかった事実を受け入れてきたのだろうと感じていた。
その子はわたしの中に一緒にいたんだ。
取り憑かれてるとかそんなんじゃなく、一緒に生きようと私がそれを選んでいた気がする。
だって、それに気づいたとたんその悲しみとのお別れがやってくると感じ怖くなったから。
ずっとわたしの中にあったら悲しみ。もう1人の私のようで今まで生きてきてずっと一緒にいた。
ひとりにしないで欲しい、行かないで欲しい…
今度は私が泣いていた。
もうさようならなのは分かる。でも寂しい。こころぼそい。
未だに胎児のような格好の私は、仰向けにならなくちゃと思っている。
胸の辺りにあるその悲しみを解放してあげなくちゃと分かっている。でもできないでいた。
その悲しみと共にあることで自分がここにいる事を許してきたのかもしれない。
そしたらMOTOKOさんが来て、『仰向けになって』と体に手を添える。
なんてタイミングだ。私の中で起きてることがみえているのだろうか?
あぁ、お別れだ。
私が仰向けになって両手を広げるのをサポートしてくれる。
仰向けになって両腕を開いたら、胸のことろにあったものが私から離れていく。
しばらくその姿勢でいたら悲しみは落ち着いていた。ただ静かに涙は流れていた。
気持ちが落ち着き呼吸が深くなっていく。
私は私から離れていったそれに、これからはどうするんだ?と問いかけた。
そしたら、『照らす』と返ってきた。私を照らしてくれるそうだ。
私はそんな都合のいい話があるだろうかと思った。
産まれて来れなかったその子は、生きてる私に嫉妬などしないだろうか?これからも一緒にいたかったんではないか?
そんな風に思ったんだ。
でも、その子も含め、今この世にいない人たちは私を照らすと言っている。
理由を聞いても、何もかえってはこない。
理由はないみたい。
また、今日も泣きすぎて頭が痛い。
目も腫れている。
でも、清々しい気持ちがある。母の悲しみも癒えていたらいいな。
ただ私のまま生きる許しをまた少し出せた気がしています。
ありがとうございました🌼