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怒れないわたしの、最強宣言

「もっとちゃんと怒らないとダメだよ」とよく言われる。

わかってはいるのだ。自分が大事にされなかったときに、時差なくちゃんと怒ることができないと、「じぶんは大事にされる価値がないからしかたがないのだ」という諦めが、どんどん積み重なっていってしまう。

怒るとか、逃げるとか、拒絶するとかができなくなったのはいつからだろうか。


わたしは、どちらかというとよく怒るほうだった。20代のころは仕事でも、ヘラヘラしていてるけどあいつが怒るとこわい と言われていた。実際どこかピリピリとした空気感をもっていたと思うし、着火したら即ことばに出して相手に伝えていたと思う。

どんなことで怒っていたかというと、ひとことで言うと「そうじゃない」ということだった。言ったことと行動がちがうとか、理解していないのにわかったふりをするとか、ウソをつかれたとか、つまりわたしの期待と相手の行動に差があったときに、「わかってくれない」ことに怒っていた。


今はそれを許せるようになったのかというと、そうではない。ただ、いつからか、ひとはそうそうわかりあえないのだ ということを知った。

これが諦めなのか悟りなのかはわからないけれど、「どうして自分の考えをわかってもらえないのか」というモヤモヤとした怒りとも苛立ちともいえるものが、わかりあえない前提で考えると、「どうしたら相手に伝わるだろうか」と思いやりをもって考えられるようになり、その前に「ほんとうに相手に伝えたいのだろうか」と考えるようになった。

すると、「どうしても全員にわかってほしいこと」というのはほとんどなく、かといって「わからないだろうから言わない」でもなく、「伝えたいから言う。わかってくれたらうれしいし、わからなくてもしかたがない」と思うようになった。

その結果、怒らなくてすむ。怒りたくて怒っていたわけではないし(わたし自身が怒られるのが大嫌いなので)これはとてもいい発明だった。


しかし、その「怒らない」には副作用があった。怒らなければいけないときに、怒れなくなってしまった。

ああ今傷ついたなというとき、怒りよりも先に悲しみがやってくる。

自分が大事にされなかったことに怒らず、このひとにとって自分は大事ではないのだ ということが悲しい。わたしが相手を大事に思っているからではなく、どんな相手でもそう思ってしまう。初対面のひとだろうと、事故のような理不尽なことだろうと、悲しい。

これは困った。どうしたものだろうかと考えていたとき、わたしの尊敬する友人が「それは意思の問題だ」と言った。どう思うかではなく、どうするか自分で決めるのだと。怒ると決めて怒り、悲しむと決めて悲しみ、甘えると決めて甘えるのだと。

目から鱗だった。

わたしはまだ初心者で訓練中だけれど、自分の意思で感情を決めるとき、そこには覚悟が必要だ。おおげさだけど、「そう思ったからしかたない」ではなくて、責任が生じるのだ。じぶんが怒ったとき、相手の反応をも受け入れる覚悟をもって怒ると決める。かなり難易度が高い。

それでも「自分本位で怒る」から「相手に寄り添い、怒らない」になって、その後「自分の意思で怒る(または怒らない)」ができるようになったら、最強だと思う。


わたしは最強になりたい。

自分の意思で、じぶんの周りのひとたちをしあわせにしたい。愛ならあるから。

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