ブスのファッションから考える、うらやましい気持ちの処理方法について
さっき読んだ「ブス図鑑」の記事に、身に覚えがありすぎて、喉の奥にマシュマロを2〜3個つめこまれたような苦しさがあった。
わたしは、小学校から高校まで制服のない学校に通っていた。私服の学校を好んで選んだわけではなくて、たまたま近所の公立の学校が中学も高校も私服だっただけなのだけど、結果的に学校の制服というものを着たことがない。
いわゆる制服マジック(制服だからかっこよく/かわいく見えるけど私服で幻滅。もしくはその逆で、私服でキュン。)のような経験もなく、「服装込みで、その人」とひとを見る感覚が身についていたかもしれない。そして、それ故に、必要以上に服装に自分を出そうとしてしまうという罠に陥ったのだ。
「ブス図鑑」量産型ブスについての記述のなかで、筆者はこう言う。
「自分流の着こなし」という、『大改造!! 劇的ビフォーアフター』でいうところの「匠のいらない遊び心」を入れてしまったばかりに、一気に個性派ブスになってしまう場合もある。
はい、わたし。寸分たがわず、わたし。
今ならわかる。料理とファッションは、初心者はまずレシピどおり作り、感覚をつかんでから才能のあるものはアレンジしてよし。思いつきで足したり変えたりすると、だいたいにおいて失敗すると。
学生のときのわたしの服装は、お金がないのもあって、フリマと古着屋、セール時に背伸びして買った少量のすきなブランドの服で構成されていた。
ほんとうは、大好きなOliveに出てくるようなファッションをしたいのだけれど、あのような格好が似合うのは、まずひょろっとしているくらいスリムな体型、顔は多少薄め、毛量少なめだ。みごとに真逆な自分の見た目と自己肯定感のなさが相まって、素直にOliveを教科書にマネすることができなかった。
その結果、空の写真の全面プリントのTシャツにおじいちゃんのスラックスを自分でバミューダパンツ丈に加工したものを履いたり、古着のウィンドブレーカーに自作のバルーンスカートを着たり、前髪をアシンメトリーに激短かくしたりしていた。
多少言い訳すると、時代の背景としては裏原系ファッションや篠原ともえ、雑誌ではCUTIEやFRUITSなどが流行っていたため、ちょっとおかしなへんてこりんな格好でも、街に出てしまえばそんなに浮かなかった。
が、学校ではもちろん浮く。そしてお察しのとおり、まったくモテない。まわりの女の子たちは、チビTシャツにチェックの台形ミニスカート、サーファー風ギャル、avex系ピンストライプのパンツやキャミソールワンピース、また私服の学校なのに制服を来てルーズソックスをはいている子も多かった(コギャルの入り口世代だった)。
高校のとき、わたしと同じバスケ部に、学年でも1、2を争うかわいいMちゃんという女の子がいた。その子は細くて顔も小さくてとても美人で、親に溺愛されていたので服でもなんでも買ってもらえたので、雑誌からそのままでてきたようだった。気さくでお笑い番組がすきな一面もありおもしろかったので、男の子からモテるのはもちろん、女の子からも好かれていた。Do!Family や OZOC のワンピースがよく似合う子だった。
Mちゃんはスポーツもできるのだけれど、高校生活では部活よりも恋愛のほうが重要だったのか、わかりやすく部活より彼氏を優先するスタンスだった(弱小バスケ部だったのでそれでも良しだった)ので、同じ部活とはいえ、スクールカーストで頂点に立つ彼女とわたし(ヘンな格好のバスケの子)にはそんなに接点がなかったはずだった。
だけど、なぜかわたしはMちゃんにあまり好かれていなかった。あからさまに無視されるようなことはないものの、ちょっとした嫌がらせ(わたしの友達によからぬ噂をながす、みんなで遊ぶときに呼ばないなど)をされることがよくあった。謎でしかなかった。敵視される覚えはひとつもないし、友人関係やテリトリーもちがうし、そもそもわたしは彼女が相手にするような対象ではなかったからだ。
卒業式の日、Mちゃんから手紙をもらった。
その手紙には、「今までごめんね」とあった。そして、「わたしはとても負けず嫌いで、なんでもひとに勝ちたいのに、サクちゃんにはどうしても勝てなかったから、悔しくてつい嫌なことをしてしまいました。それでもサクちゃんはすこしも傷ついたことを見せず、態度を変えないでにふつうに接してきて、相手にされていないと思って、もっと自己嫌悪に陥りました」と書いてあった。
この子はいったい何を言っているのだ と、その時はまるでわからなかった。
今思うと、Mちゃんは、いつも周りにひとがいて、褒められて、なんでも手に入るのがあたりまえの環境にいたので、無意識にも自分の好みよりも褒めてもらえるものを常に選ぶようになっていた。他人の目や評価を意識しすぎていた。
だから、わたしのように周りにすこしも合わせずヘンな格好をして、みんながいっしょに遊んでいても気にせずひとりで部活や読書をしたりライブに行ったりしているのが、理解できなかったのだろう。
ひとは、わからないとイライラし、怒る。
理解できないひとがいるのがただ目障りだったのかもしれないけれど、彼女がわたしを敵視していたのは、そういうことかなと思う。ブスでモテないうえにとんだとばっちりだ とも思うけど。
ブスでも、学年一かわいくても、自分のもっていないものを羨むきもちは同じようにあるんだなと知った。そして、その感情を掘ってもあまりいいものを生まないということもわかった。
ひとを恨んでも羨んでもいけないよ、とよく言うけれど、それでは羨ましいというきもちをどう処理したらいいかと考えたら、やっぱり行き着くところは「他人とくらべるな」というところだ。
しかし、それでは羨ましいきもちがなかったことにはならないので、わたしは、最近はその相手に「いいな!羨ましいな!」と正直に言うようにしている。
じぶんのなかにしまっておくと「羨ましい」は苦くなる。相手に伝えると「羨ましい」は褒め言葉になり、受けとった相手のなかで甘くなる。
今でも華やかでかわいいモテファッションはまったくできないけど、こうなったらモテことばでモテようと思う。ことばの力を信じてみようと思う。
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