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シングルマザーのクッキー屋の話【こどもとわたしのこと②】

23歳であーちんを産んだとき、周りにママ友もいないし子育ての見本もなかったからか、わたしの子育てはたぶん偏っていて、特に「教育」という視点があまりなかったように思う。
産まれてきたちいさな人は明らかに自分とは別の人間で、縁あってわたしのところにやってきたけれど、もともと持って生まれた人格を持っていると産まれてわりとすぐにわかったので、わたしが「教育」をして子供の人格を作り上げるという義務を感じたことがない。良くも悪くも。
この人はどんな人なのかなあという感心、興味、好奇心で接してきたのだと思う。

わたしはあーちんのことを子供だと思ったことがあまりない。もちろん自分の子供だと思っているけど(そりゃそうだ 産んだよ)、経験が未熟で何もわからない子供というイメージに彼女は当てはまらなかった。
保育園に入って他の子供たちを見ても、見た目の小ささは同じでも持っているものは人それぞれだなあと思った。けれど親の子供への扱い方で子供の態度が変化していくのもまた組み合わせの妙だった。
親が、子供は何もできないとしてなんでもやってあげると、その子供はやらなくなったりできなかったときに親のせいにしたりするようになる。
わたしも大人に「おまえはダメだ」と言われると、その期待に応えて本当にできなくなる子供だったのでよくわかる。

わたしはあーちんを頼りになる仲間として、常に対等だと思って接していたのだけれど、それは同時にとても厳しいことだったとも思う。
たとえば、通常子供だから許されるわがままも、我が家の唯一の家訓「不機嫌禁止」に則って許されなかった。
子供が思い通りにいかなくて泣いてしまうときも「泣いたら大人が解決してくれるという考えのクセがつくのが私はイヤだから、泣きたいだけ泣いてもいいけれど、何のどんなことがイヤだったのか考えて、わかったら私に話して。そしたら全力で解決するから。泣くだけではわたしは解決しないから。」と2歳のあーちんに真剣に話していた。
元々がとても機嫌のいい彼女だからできたのかもしれないけれど、なかなか厳しかったなと今になって思う。
そして副作用として彼女はかなりの説明魔(くどい)にもなった・・・。

クセについてはよく話していたと思う。習慣は味方にも敵にもなるということ。姿勢もそのひとつで、大きくなってから直すのは大変だから子供のうちにクセ付けておいた方がいいよ、とうるさかったかもしれない。姿勢も、考え方も、話し方も、世の中の見方も、なにもかもクセだなあと思うので。なんだか元も子もないけれど。

わたしは正しいことを教える積み立ての「教育」に自信がないから、何がかっこいいかかっこ悪いかを一緒に見ながら考えて、視野を広げていろんな角度から見ることで、物事は面ではなくて球体で、見え方(クセ)は人それぞれなんだということをずっと言ってきたのかもしれない。


長くなってきたので・・・初回はこちらです。



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