保育園落ちても生きて(できれば笑って)いこうぜという話
先日から話題の「保育園落ちた」関連について、思うことがあって、でもまあ書きづらいなー言わなくてもいいかなー怒られるのやだなーと思って書かなかったのだけど、日曜で読んでいる人も少ないだろうし、書いちゃう。
まず、保育園が足りないこと、多くの人がとても困っていること、それに声をあげたほうがいいということは、まぎれもない事実だ。
その理由もこの記事を読んで少しだけわかった。
そして国会で話題にあがるまで届いていて、誰もまちがってはいない。
しかし、だ。
まず「死ね」はダメ。どんなに憎くても、ダメ。
親として、ひとりのひととして、こどもにそのまま見せられる姿でなければいけないと思う。
わたしが今、赤ちゃんで、自分の親が、自分の住む国を悪として戦っているのを見ているとする。「死ね」と言って絶望しているとする。
ああ、わたしはとんでもない国に生まれてしまった。
おかあさんは自分のためにとてもいやな思いをしている。怒っている。わたしのせいで。
そう思うだろう。
実際、娘が小学生のとき、親たちが担任の先生のことを悪く言い(実際に問題があったかどうかはここでは関係ない)、正義をもって学校に訴え、改善すべく立ち上がるのを見ていた。
「学校が悪い、先生が悪い、仕組みが悪い」
それを見ていた(見て見ぬフリをしていた)子供たちは、どんどん学校のルールを守らず、先生のいうことを聞かずバカにするようになった。
学校や先生は悪いのだから、それでいいと思っていたのだと思う。
親のいうことは絶対だから。まちがっているわけがないから。
なんなら、親のために戦っていた子供もいたかもしれない。
怒るのはいい。それを伝えるのもいい。改善できたらもっといい。
それなのに、悪循環しかうまれなかった。
そのときにわたしはどうしたかというと、同じように学校には期待できないなという思いがあったけれど、悪だから正さなければ、とは思えなかった。
娘につたえていたことは
「学校では、親ではなく先生と自分の信頼関係をきちんとつくってほしい」
「先生になにかを求めるのであれば、自分も約束を守らなければいけない」
「この学校では個性は伸ばせないから、学校の外で楽しいことを見つけよう」
ということだった。
このときの経験から、怒ることと同じパワーでできることを、別の方向に使うひとにも、声をあげてほしいと思う。
たとえば、
保育園に落ちたその後、どうやって働くことができたか、とか
保育園に入らなくてもできる仕事をみつけた(つくった)、とか
保育園に落ちた人同士でこんな協力体制をつくった、とか
社内に保育所がある会社を紹介する、とか
そういう希望のある話を、怒りの意見と同じ分だけ発信してほしい。
自分だけよければいいなんて話できない、という空気を読まず、どうやって回避したか、こんな方法もあるよ、と言ってほしい。
今こそ、モンスターズインクを設立したい。
恐怖や怒りのパワーより、笑いのパワーのほうがずっと大きいのだ。
わたしが赤ちゃんなら(しつこい)、
おかあさんが自分のために、
怒りながら泣きながら何かと戦っている姿よりも、
ちゃっかり楽しんでいる姿を見たい。
そして、
あなたがこれから生きていく日本には、死なないでほしい。
むかつくところがたくさんあるけど、それでも、そんなに悪くないよ。
いいこともたくさん待っているし、自分でつくることができるよ。
人生、楽しみだね!!
と言ってほしい。
\読んでくれてありがとうございます!/ みなさんのサポートはとても励みになっています。