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もっと、つよくなりたい。(怒りと嫉妬について)

オリンピックを観ているからか、ここのところ「つよさ」について考えている。わたしは、もっとつよくなりたい。

自分で言うのもなんだけど、わたしはけっこうつよい。だけど、もっとつよくなりたいなと思うのだ。それはどうなりたいということなのか、それにはなにが足りないのか。


わたしはほとんど怒らない。

怒っているひとは一見つよそうに見えるけれど、「怒り」は「つよさ」とつながらない。ひとはどんなときに怒るかというと、自分が大事にしているものを脅かされて阻止したいときや、なにかが理解できないとき、伝わらないとき、思い通りにいかないときなど、「怒り」は「不安」とつながっているのだと思う。怒っているひとは「こわいよー」と言っているのだ。

だから、怒らないということとつよくなることは、おそらく関係ない。


わたしはほとんど嫉妬しない。

「嫉妬」は「つよさ」につながるのではないかと思う。嫉妬のアンテナをもっているということは、自分がなにを大事にしているかがわかっているということだ。ここだけは負けたくないというポイントを知っているということだ。(ただし「嫉妬」のなかには「怒り」つまり「不安」も含まれている)

わたしがなにごとにも嫉妬をしないでサッとひとにゆずるのは、他人は他人でじぶんではない。そして誰もがすきにしたらいいと思っているからだ。

たとえば、自分はクラスのだれよりも足が速いと思っていたのに、自分より速い人が現れたとき、その人の存在によって今までの自分が変わることはないから、嫉妬という感情はうまれない。
たとえば、自分の恋人が他の人にこころ移りしたとき、そのふたりの関係のなかにわたしはいないので、恋人のことが好きなら好きなほど、彼が望むようにすきなようにしてほしいと思う。そこに悲しみはあっても嫉妬はしない。

ただ、同時に「それは大事だといってもその程度のことだからだ」とも思う。どれくらい大事にしているかという度合いの問題ではなくて、「大事にすると決める」という覚悟と意思の問題なのだと。

この「自分以外のなにかや誰かを大事にするという覚悟」は、たしかに今のわたしに足りないもので、もっとつよくなるために必要なことだ。それは自分をもっとつよくする。もちろん一方通行に与えるだけの「誰かのため」ではなくて、お互いの信頼関係によって、つよくなる。


「つよさ」は「信頼」につながっている。

わたしはもっとつよくなるために、誰かを信じることにする。



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