すきなひとには、すきにしてほしい
わたしがあーちんによく言うセリフのひとつに「好きにして」というのがある。
あーちんはどちらかというと心配性なので、「◯◯してもいい?」「◯◯したいんだけどどう思う?」と、細かく確認しようとわたしに聞いてくる。
その返答は9割がた「好きにして」だ。
そのなかには「自分で考えて決めて」という要素が多く含まれていて、いいともダメとも言われないから、どちらにしろ決めたことを、さいごまで人のせいにできない。
「好きにしていいから」とやりたい放題やるようになるかというと、そうでもないのがおもしろい。(彼女のビビりな性格もあると思うけれど)
好きにしていいということが、何をやっても許されるというわけではないことを知っているし、言動ではなくて行動が信頼関係をつくっている、ということも知っているからだと思う。
この「好きにして」は、教育のためでもなんでもなく、わたしの根本的な願いで、近い存在のひとほど、好きなようにしてほしい と本気で思っている。
と言うのは、わたしの考えるしあわせは「こうありたい、こうしたい、という考えと実際の行動が近いこと」で、それが近ければ近いほどしあわせだと思うからだ。
あーちんに「◯◯したいけど△△だからできない」というクセをつけてほしくなくて、まったくおなじ状況でも「◯◯したいけど□□だからやらない」と自分で決めたかたちで考えるクセをつけてほしい。
これが、小さなことだけれど、とても大きな差だと思う。
しあわせを「こうありたい、こうしたい、という考えと実際の行動が近いこと」としたときに、考えと行動の間に架空の壁をつくって、向こう側には行けないのだ と自分をだまし続けると、その壁はどんどん大きくなっていくのだ。
それは、壁が大きければ大きいほど、自分の行動を肯定することになるからで、その結果、自分の考えよりも、壁を大事に育てることになってしまう。
うまくいかないことや叶わないことがあったときに、壁を育てるのではなくて、次の行動にうつすには、主語を「わたし」にすればいい。
「わたしは、こうする」「わたしは、そうしない」と。
そのときに「親の願いをかなえること」というのは、自分の考えだとまちがえやすい。
「お母さんが望むから、わたしはこうする」というのを、自分の考えだと思ってしまう例ををたくさん見てきたので、わたしがこうしてほしい とは言わず、「好きにして」と言う。
これがしあわせになる英才教育だ。
だからみんな、好きにして。
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