多様性って「みんななかよく」じゃなくて「みんないてよし」だよねって話
こどもの頃から「みんな」が苦手だった。
同じクラスだから「友達」、みんな仲良くしましょう。という価値観にぜんぜんピンとこなくて「いや、人によるわ」と思ってしまう。
今なら、同じ地域に住んでいる同い歳というだけでたまたま集まった30人くらいの中に気があう人とあわない人がいるのは当たり前で、気があう人がひとりもいなかったとしても仕方ないと思う。
でも、子どもにとって学校の先生の言うことは「正しいこと」なので、“みんなと仲良く”できない自分に引け目を感じていた。先生に「どうしてもっと子どもらしくいられないんだ」と言われて「ごめんなさい」と謝ったこともあった。
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大人になったらどうかというと、環境を自分で選べるようになって“みんなと仲良く”しないといけないことは減ったし、人との距離感も自分で決められるようになった。
それでも、誰かに選ばれないことや受け入れられなかったときのさみしさは消えないし、わかりあえることの少なさ、むずかしさに落ち込むこともある。
もう15年以上前のドラマ(木皿泉さん脚本)を観ていたら、こんなセリフのやりとりがあった。
教授:「あなた、この世にそんな女がいるとは信じられないと思いましたね?今」
基子:「はい」
教授:「それはちがいます。いろいろいていいんです」
基子:「わたしみたいなもんも、いていいんですかね?」
教授:「いてよし」
ドラマ『すいか』より
この考え方こそが「多様性」なのだと思う。
わたしたちができること、するべきことは、個性や考え方や趣味思考などの偏りを受け入れて仲良くする努力や、個性を消して周りに合わせる努力ではなくて、どんな人でも、仲良くできなくても、「いてよし」とすることなのだと。
他者を許容・受容できるかどうかの範囲は人それぞれなので「多様性」はむずかしいのだと思っていたけど、許せなくても受け入れられなくても「いてよし」と思えるための工夫が必要なのだろうな。
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こどもの頃のわたしは、教室ではむずかしくても図書室や図書館で本を読んでいるときは「ここにいてよし」と思えたし、そこにいる子たちとは年齢がちがっても仲良くなれるような気がした。
娘のあーちんも小学校で仲良くなれる友だちがみつからなかったので、「目があう人のところに連れていってあげたい」と思って学校の外で探した。
そのとき、「彼女のすべてを受け入れてくれる人」ではなくて、「のびのび絵を描ける場所」として探した。
誰かと同じ視座で目があうとうれしいし、話ができる。だけど、すべてがぴったりあう人に会うことはとても困難なので、自分自身を多面体で捉えて、どこかの面があう人や場所を探すといいのかもしれない。もっている面の数だけ居場所が増えるから。
子供のころ「正しいこと」として教わったことを覆すのはむずかしいけど、「みんななかよく」の価値観を「みんないてよし」に変えることと、「たったひとつの本当の自分」ではなく「自分を多面体で捉える」ことができるといいなと思う。
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