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今なんで曖昧な返事をかえしたの(ことばでわかりたいの)

こどものころから、「知りたい」「わかりたい」という気持ちがつよかった。

こどものころ、大人の言うことはほんとうだと思っていた。
ことばのほんとうの意味はひとつだと思っていた。
だから、ちゃんと知らないといけない、と思っていた。

今なら、ことばの温度を感じ取ることができるし、「ほんとうのこと」と「うそ」は二極ではなくて、その間には、東京ドーム10個分の気持ちやことばが存在することを知っている。

(それでもわたしはことばを信じすぎる傾向がある)


その「わかりたい」という気持ちについてちょっと考えてみた。


仕事でも、自分が関わるときに、それが何なのか把握しないとさわれない傾向がある。

たとえば、新入社員のときに「とりあえずこれやっといて」という仕事でも、前後の流れや全体を把握していないことが苦しくてつらかった。

どんどん焼き上がるマドレーヌを袋詰めするのに、目の前のマドレーヌだけを見て、いいからどんどん詰めて、という仕事のやり方が、つらい。

全部でどのくらいの量があるのか、袋は足りるのか、足りなくなったら在庫はどこにあるのか、同封するエイジレスというのは一体何のために入れるのか、入れる際に気をつけるポイントはあるのか、この作業によくあるミスはなんなのか、あたたかいまま詰めてもいいのか、すべて袋にいれてから封をしていく方がいいのか、順に封をしていく方がいいのか、消毒する頻度はどのくらいがいいのか、これはどこで売られているのか、いくらで売られているのか、と気になって気になって、知りたい。

まじで、うるせえ。

わたしもそう思う。
けれど、自分が何をしているか知らないということが、つらい。

わたしが知りたいのは、
「つまり、これは、なんなのか」だ。

パスカルか。ニーチェか。仕事しろ。

わたしなら絶対ヘンなあだ名つける。
「わかりや長介」とか。


当時の上司にはほんとうに迷惑をかけたな、と反省している。
めんどくさい以外のなんでもない。
でも、もうしょうがないから許してほしい。

それが、若いからとか、新人で不安だから、かと思いきや、今でもその傾向はかわらない。

人でも、会社でも、イベントでも、わからないまま関わることができない。

そのかわり、その知りたい気持ちをもって、把握することができたら(その前にドン引きされていることもあるだろうけど)、ちゃんとそのもののことがわかったら、心おきなく自分のこととして、全力で愛をもって動ける。

わたしの「わかりたい」は、
おなかがすいていて食べものを目の前にしたときの「食べたい」と同じだ。

そのあとの「おいしいー!」はしあわせだ。

おなかがすいていないときや、何とも思わないものでおなかを満たしても、ちっともおいしくないから、それではいやなのだ。

ひとでも、仕事でも、どうせ関わるなら、しあわせにしたいじゃないですか。

わたしのまわりの人たちを、めんどくさいのと引き換えに、しあわせにしてやるよっていう話。


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