見出し画像

やりたいことがない人とある人は何がちがうのか考えた(夢組と叶え組の話)

ちょうど去年の今頃、こんなnoteを書いた。

やりたいことがある人とない人を「夢組」と「叶え組」として、やりたいことがないのは悪いことではなくて、役割がちがうだけだからチームで組み合わせるととてもいいよ、というようなことを書いた。

わたし自身が「叶え組」で、やりたいことがなくても得意なことやできることがたくさんある。だからやりたいことがなくても大丈夫。それは今でもほんとにそう思うんだけど、どうしてこうなったんだろう、ちがいはどこにあるんだろうと考え続けていた。


いちばん身近にいる「夢組」は、娘のあーちんだ。

あーちんは来月で16歳になる高校1年生なんだけど、彼女は好きなことややりたいことがハッキリと見えていて、それに夢中になる力ももっている。

彼女が「夢組」になった過程を16年間近くで見てきたので、すこしふりかえってみる。

******************


わたしは23歳のときに子供を産んだのだけど、周りに子育て仲間がいなかったし、インターネットにも今のように情報が溢れていなかったので、「子供にとっていいこと」が何なのかよくわからなかった。子育て雑誌に「こうしましょう」と書いてあることを読んでも「そうなの?」といまいちピンとこなかった。

「子どもにこうしましょう」とひとくくりに言うけど、子どもといってもしてほしいことは人それぞれだろうと思ったので、乱暴な方法ではあるけど本人に「どうしたいか教えて」と聞いていた。

泣いている子どもに「泣いてもいいから、気がすむまで泣き終わったらなにがイヤでどうしたいか教えて」と言ったりしていた。言ってくれればわたしが全力で解決するから、と。我ながらやり方が雑だけど。

その方法をとったのは、単純に「この人(あーちん)がどんな人なのか知りたい」という気持ちが大きかった。それから、親子とはいえただの人間関係だと思っていたので、親だからとか年齢が上だからとかを理由に相手を動かそうとしないで、できるだけ対等でいたかった。

そんなわけで「どうしたいか言ってね」ということに関してだけ幼少期からスパルタ教育をしてきたので、あーちんは小さいころからわたしになんでも伝えてきた。


あーちんが3歳のころ、わたしが働いていた会社の社員旅行に連れて行ったとき、旅行中にわたしのところに来るのは寝るときだけで、それ以外はわたしはいないかのように別の大人たちにくっついて仲良くしていた。

寝る前にその話をしたら、あーちんは「近くにいなくていいからちょっと遠くで見ててほしいんだよねー」と言っていた。ほんとにそうなんだろうなと思ったので、望み通りあまり近くで見ずに、でも「見てるよ」ということだけは伝えるようにした。

「見てるよ」を伝えるのは「ここがすごいね」「これがすきなんだね」と褒めることと同意だった。わたしは彼女をよく褒めてきたと思う。「褒めること」と「理解」はセットで、知りたいという気持ちがあるからできたことだったなと今になるとわかる。


そうやって「どうしたいのか言う」と「関心を持って見て褒める」を繰り返していたら、それが結果的に「欲を言語化する」という習慣になっていた。「こうしたい」という欲に蓋をしないですんだので、あーちんは今も自分が何が好きかよく知っているのだと思う。

わたしの子どもころを思い出すと、「こうしたい」と自分の希望を言ってもいいという環境ではなかった。自分のしたいようにすると「自分勝手なことして」と咎めたれた。好きなものもあったように思うけど、「好き」なだけでは褒められなかった。自分よりできる人がいたらそちらが褒められるのは当たり前だと思っていた。

大きくいやな経験がなくても、そういう小さなことの積み重ねが自分の欲に蓋をしてしまったんだろう。「こうしたい」「これが好きだ」に蓋をして出さずにいると、自分が何が好きなのかわからなくなったり、何がしたいのかも誰かの反応からしか決められなくなったりする。

「やりたいことがない」「何が好きかわからない」の背景にはそういう「欲に蓋をしてしまった経験」があるのだろうなとわかってきた。


********************

「やりたいことがない」原因がわかったからといって、子供の頃に戻ってやり直すことはできない。でも、わたしは大人になってもどうにでもなると思っている。やりたいことがないままでも、いくらでもやることを見つけられると。

「叶え組」として「夢組」の人と組んで、誰かの「やりたいけど一人ではできないこと」をチームで共有してやることもできる。

自分から湧き出る欲ではなくても、そこに問題や課題があってはじめて「困っている人をたすけたい」という動機でやるべきことが生まれることもある。

今からやりたいことをみつけることもできる。ただ、それには長年積み重ねた蓋を剥がしていかないといけない。難易度は高いけど、できる方法がある。


それは、「書くこと」だと思っている。

「やりたいことを100個書いてみて」と言われても、自分の欲よりも何か別のものがジャマをして書けない人が多い。他人の評価だったり、お金への恐怖だったり、恥だったりいろいろだ。

書ける人は「やりたいこと」というのは「公園でぼんやりしたい」とか「週休3日にしたい」とか「痩せてくびれたい」とか規模もジャンルも織り交ぜて何でも書ける。できるかどうかは関係なく、欲を正直に取り出せる。

書けない人は、何が欲の蓋になっているのかを知るのが先だ。

そのためには、何でもいいから自分が思っていることを書いてみるといい。人に見せなくてもいいから、自分の感情や考えを、いやなことでもいいことでも、現在のことでも過去のことでもいいから何個も書いていってみると、「なぜか何度も言いたくなること」や「引っかかって書けないこと」が見えてくる。

どれくらい時間がかかるかは人によってわからないけど、「あ、これがいやだったんだな」「これを我慢していたんだな」「こうしたかったんだな」とわかることが必ずあると思う。

少なくともわたしは、書いたからわかったことがものすごくたくさんある。

考えているだけではわからなかった(またはわかった気になっていた)ことが、「書く」という作業で見えてきた。「考える」と「書く」の間にはすごく大きななにかがあって、そのフィルターやストッパーやエンジンが何なのかを知ることができた。書かないとわからなかった。


やりたいことがあるとかないとかを考えていたら、書くことのすごさに気がついた。

みんな、note書こ。

一緒にnoteで #やりたいこと100個 書けるようになろう。

\読んでくれてありがとうございます!/ みなさんのサポートはとても励みになっています。