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知りたいと思うには、全部ちがうと知ることだ(クセの話)

いつか美容師さんが言っていた。

「クセをつけるときは、熱いうちにクセをつけて、すぐにやめないで、冷めるまでそのままにしておくと、クセがつきます」

ああ、ほんとうにそうだな、と思った。

わたしは、人はそれぞれもともと持っている素質に加えて「クセ」がついていって、それが個性になっていると考えている。

姿勢も、考えかたも、感情の出し方も、話し方も、食べ方も、表情も、「クセ」だと思う。


わたしが身につけたクセで「嫌いな人をつくらないクセ」というのがある。

これは、もともとわたしに「自分のまわりに嫌いな人ばかりいる」「自分はまわりの人に嫌われている」と考えるクセがあるところからきている。

こどものころから「自分は父親に嫌われている」と思い込んでいたので、「自分は生まれつき人に嫌われるようにできているのだ」と思っていた。

そして当然ながらわたしも、父のことが嫌いだった。世界でいちばん嫌いだった。


いま振り返ると、小学校でも中学校でも、見た目には明るく誰とでも仲良くできるけれど、実は人に嫌われることに敏感で、友達の顔色をうかがってから自分の態度を決めていたように思う。

そうすると、「顔色をうかがわれることに敏感な人」に、ものすごく嫌われることになる。
家で親に気をつかわれていて、それを逆手にとって親に対する態度が悪いタイプの人が多かった。
磁石のように、真逆の者同士が反応していたのだと今ならわかる。

さらには、自分の考えが正しいと思うために、「嫌われた」と思ったら、よせばいいのに、自分からもっと近づいて確かめに行ってしまうクセもついた。

当時はそんなことはわからず、「どうして自分は嫌われるんだろう」といつも考えていた。


そしてわたしが18歳のときに、世界でいちばん嫌いだった父が倒れ、そのまま亡くなってしまった。

嫌う相手がいなくなり、そこにはわたしの感情だけが残された。

父の感情は、残されなかった。

嫌われていたかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


そこでわかったのは、「ひとの感情は残らない。残るのは、その人の態度や言葉でつくられた思い出だけだ」ということだった。

それから、わたしは人を嫌うことをやめる、と決めた。

正確には、どんなに嫌いでも、相手にそれが伝わることはぜったいに避けると決めた。そんな思い出(わたし)を相手の中に残したくないから。


まず、父のことを自分と切り離して、ひとりの人として客観的に見れるところまで離れると、自分の感情と相手の感情がぶつからないことを発見した。

もちろん真相はわからないままなのだけど、わたしの中ではすっかり「父は、最後まで自分に素直になることができず、わたしのことを嫌ってしまう自分を、嫌いだっただろうな」という、勝手な解釈をしている。

それでいいのだと思う。


そのクセをつけてからずっと、苦手だなと思う人がいたときや、一方的に相手から攻撃的な態度をされたとき、「自分の感情が届かない場所まで離れる」という方法をとっている。それは「嫌な部分が見えない距離」でもある。

どんなに近い存在でも有効だし、今のところとてもうまくいっている。

これは、熱いうちにつけたクセを、すぐにやめずに冷めるまで続けたから、習慣(クセ)になったのだと思う。


習慣をつくる(決める)ことが先ではなくて、まず繰り返しやりはじめること。続けていたら、冷めたころには習慣(クセ)になる。

こうして、クセで、カワイイはつくれるし、泥棒もつくれる。

自分やだれかのクセを知ることは、とてもおもしろい。それって、愛かな、なんて思う。



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