ガマンの鎧を着ている人の話
自分が「ガマンの鎧を着た人」だと気がついたのは30歳だった。
もちろん生きていれば誰もがガマンをした経験はあるし、「わたしは誰よりもガマンをしてきたのよ!」と不幸自慢をしたいわけではない。むしろ他人から見たら「さんざん好き勝手にやってきたじゃないか」と言われるくらいだと思う。
自分では選べないような家庭環境や経済状況でガマンすることは少なからずあったし、生まれ持った見た目や体質で他人を羨ましいと思うこともあった。比較的早いうちに子供を産んだことで20代にガマンしたことは1000個じゃ足りないと思う。でも、問題なのはそのガマンの数ではない。
振り返るとわたしはいつも「自分の環境や状況を受け入れてガマンする」のではなく、どういうわけか「自分はガマンしないといけない」という考えが前提にあった。だから、自分がなんか嫌だなと思うことも、誰かに傷つけられることも、向いていない仕事も、「しかたがない」と諦めてガマンしていた。
今思うと向いてない仕事は分かった時点でさっさと辞めていいし、大事にしてくれないと感じる人からは離れたほうがいいし、なにを犠牲にして諦めているのか不思議に思うくらいなのだけど、当時は本気で自分はそうあって然るべきなのだと思い込んでいた。自己評価が低く、自己犠牲が強く、まさに「自己肯定感が低い」とはこのことだと教科書に載るような典型だと思う。
そんなわたしには、自分を肯定するために「ガマンしてる自分を評価してほしい」という願いがあった。過去に戻って盛大にツッコミを入れたい。自分を肯定するには「ガマンしない」であるところを、「ガマンしている自分」のまま肯定しようとしていた。
「ガマンができる自分」を肯定しようとすると、「ガマンしている自分はえらい、ガマンさせる人や環境が悪い」という怒りだけが残ってしまう。
「あいつのせいでわたしはこんなにガマンしてる!」と怒っているときに「じゃあ本当はどうしたいの?」と聞いても、「ガマンしている自分」を固定して認めてしまうと、怒りだけが残って、どうしたいかというと「怒りたい」人になってしまう。実際にわたしはずいぶん怒っていたんだと思う。(表面上は出さないけど)
しかし、ある日、もうイヤだ!と全てを投げ出そうとしたとき、なにがイヤで、なににガマンしていたのか自分でもわからなくなった。
どう考えてもほんとうはガマンしたくないし、しない方がいい。ガマンしないといけないというのは自分の思い込みだし、自由にしていいと許可していなかったのも自分自身だった。自分を縛っていた枠を捨てようとしたときに、そんなものはないのだと気がついた。
自分では、まさか自らすすんでガマンしているということはわからず、自覚がなかったので、「わたしはたくさんガマンしている」というガマンの鎧をガチガチに着込んだ当時のわたしに「じゃあガマンしなければいいじゃん」と言っても、すんなり「そうだね」となれないだろう。
もうそれ以外ないよねっていうくらい正論なのだけど、とはいえ突然キツキツの鎧をパーンと脱ぐことはむずかしいので、「もしもガマンしなくていいなら、どうしたい?」と聞いてすこしずつゆるめてあげたい。全ての解決は説得力より想像力からだと思っているので。
当時のわたしのようにガマンの鎧を着た人に、「ガマンしてエライね」と鎧を褒めるのではなく、「どうしたらガマンしなくてすむかな」という方向で「鎧を脱ぐ」という選択肢に気づかせてあげたいとおせっかいながら思うんだっていう話。
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