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スズメになりたかったあーちんと、子育ての「わからない」について

まわりのひとよりすこしだけ早く子育てをしたので、時間差で、今子育て真っ最中のともだちに、あーちんがちいさいころのことについて「こんなときどうしてた?」などと聞かれることがある。

今ふりかえって思うことと、当時のわたしに見えていたものには差があって、「今思うとそうだけど、そのときはよくわからなかった」ということばかりで、当時も「今はわからないけど、これはどういうことなのかいつかわかりたい」と思っていた。


たとえば、あーちんはちいさいころから6歳くらいまでずっと「とりになりたい」と言っていた。(具体的にはスズメ希望だった)

神社にお参りに行ったときも、絵馬に書いてお願いしていたし(ぼかし部分はあーちんの名前)


保育園の帰り道に、姿が映るおおきなガラスの前でダンスの練習をするお兄さんたちの横で、はばたいて飛ぶ練習をしていた。

こどもの頃から現実的だったわたしには、彼女に何と言ったらいいかまったくもってわからなかったので、他力本願で谷川俊太郎さんに質問したりもした。(ものすごくいい思い出!)


その思いは、保育園の卒園記念のインタビューに証拠動画も残っていた。



当時は、これが「こどもだから」なのか「彼女ならでは」なのかわからなかった。自分にはない考えや発想の要素を、どう捉えたらいいのかもわからなかった。だけど、今になって、そうしてわからないままにしたことが正解だったのかもと思う。「このひとは、おおきくなったらどんなひとになるのかな」とただ楽しみに、愛をもって、ほっといた。

こんなかわいいことを言うのはこどものうちだけで、おおきくなったら変わるよ、なんて言われたこともあったけれど、彼女が13歳になった今、「鳥になりたい」とは言わないまでも、根本的にはなにも変わっていないように思う。それどころか、「ああ、このひとは本気で言っていたんだな」とわかるので、(ただ放置しただけだけど)つぶさなくてよかったなと思う。



子育てといっても、相手の年齢がだいぶ下で血縁関係があるというだけで、自分とはちがうひとのことはわからない。わからないからといって否定もできない。わからないまま楽しみに見守ることしかできない。

子育てだけではなく、1年経ってわかること、親になってわかること、死ぬときにわかることなど、生きているとわからないことばかりだ。

子育てについても、先にこたえをわかりたくても、他人の経験やことばではきっとわからないから(わかったと思うほうがキケンだと思う)、そのときそのときに目の前のこどもをみて、わからなくてもわからないまま「きっとあとでわかる」と楽しみにしていたらいいのだと思う。

そうして置いてきた「わからない」を、あとで振りかえって見たとき、きっとそれはその子だけが進んできた道を見せてくれる光になる。だから、「わからない」をこわがらなくていい。親が、こどものことをわかりたいと思う気持ちで見ていたことは、その興味自体が、こどもにとってとてもうれしいことだ。


わたしも、こどもとのつきあいはまだ13年で、自分とはちがうのでやっぱりよくわからないけれど、その「わからない」は「どうなるか見せてほしい」という期待にもなっている。

愛の反対語は無関心だなんてよく聞くけれど、無関心の反対語は関心だから、やっぱり「知りたい、わかりたい」で完結していいんだと思う。その先の「わかった」は、いつやってくるかわからないから(わからないままのこともあるだろう)。


子育て中のともだちよ、わたしになにか聞いたときの「わかんない」は、無関心で突き放しているのではなくて、本気でわかんないし、それでいいと思ってるんだよという話。


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