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山登り人生VOL363冬山合宿富士山マッキンレートレ 6回目

1969年9月23日から記録を執り始めた山日記をブログで振り返っています。ブログは2021年9月1日から始め2年10ケ月、
このシリーズ「山登り人生」は一年経ちました。

39歳頃の山登りです
昭和63年度はメニエル症候群を発症した中ですが
会では創立35周年事業「九州58座踏破計画」で大いに盛り上がり、

来年のマッキンレー遠征計画も動き出し
7月からはトレーニングが始まり打ち合わせも続きます。
11月1日職場異動により参加が段々と怪しくなりますが、
まだ諦められずトレーニングには参加します。

No480マッキンレートレ4回目相浦川右岸アイゼンワーク


昭和63年11月12日 
K君、F君、長崎登高会K女史と私
キャンパー14:30、アンゼンワークトレ17:00.
夜は御船山に向い佐賀RCCの新郷さんらから情報収集する。

No483マッキンレートレ5回目多良岳

昭和63年12月25日 K君と私
佐世保9:00⇒黒木駐車場10:30→12:10金泉寺13:10→14:20駐車場

ネットより二重登山靴

二重靴の足慣らし。
年末で家にも居たかったが、K君との約束もあり多良岳へ。
コフラックも雪がないところでは足が辛い。
下りは酷く足が痺れてしまった。
久し振りの金泉寺、

山小屋では直ぐに「ゴミは散らかさないように」と言われ気分を害する。
居心地悪く早々に下山。
早めに帰宅し、年末の家周辺掃除。
不燃物を出したり枯葉を燃やしたりする。 

No484冬山合宿富士山マッキンレートレ6回目

昭和63年12月29日~1月3日
参加希望者全員5名
12/29佐世保20:00⇒ 16時間 1,250km走行
12/30浜名湖SA9:45(朝食)⇒御殿場11:00⇒13:30富士スバルライン五合目
   駐車場高台に幕営15:00 快晴雪無し、富士山も真っ黒

12/31出発8:00(夏道を忠実に登る。雪がないのを再確認。)→
  八合目14:30→頂上小屋前
  (MとF15:10着、Kと私16:30着、K女史16:45着)
  曇り風あり、幕営の際テントを強風で飛ばされポール一本折る。
  私37.4度、K君37.5度の微熱あり高度障害にて不調。
  食欲無し、呼吸困難(メニエルの影響もありか)
  就寝20:00
  強風のためテント外張外れポールもバラバラ、テントはペチャンコ

01/01私の調子悪く下山を決定。外は猛吹雪。視界は5m程、先が見えない
  動作緩慢と強風でテント撤収に手間取る。
  下山開始9:00(昨日と打って変わりアイスバーンの雪道)→
  五合目駐車場(MとF12:10着、K君・K女史と私13:30着)
  出発14:00(道路凍結でスバルスカイライン閉鎖、
  タイヤチェーン装着⇒15:00河口湖民宿「紅富士荘」
  6,100円ワイン1.5升瓶空ける。
01/02出発9:00⇒富士ビューホテルでお土産⇒朝霧高原⇒富士IC11:30⇒帰路

01/03 佐世保4:30

 富士吉田で買出し。雪が少なく五合目まで車で入山でき一日短縮できた。
夕方はマイナス10度まで下がった。

31日山頂へ。
スタートから調子悪く腰が痛い。
七合目付近からは先行のMとFに遅れをとり、
最後にはK君とK女史と合流する。
山頂へは1時間半も遅れて到着する。
バテバテであった。
脈拍105、体温37.4度。
完全に高山病で動悸が激しく夜は全く眠れなかった。
夜半より風雪が酷くなり、テントポールは折れ、
テントは完全に潰されてしまった。
高山病、
このままここに居ると身体がどうにかなるのではと考えてしまった。
K君もK女史も高山病症状。

 1日、朝が来てようやく下山できる。テントは今にも飛ばされようとしている。いざ行動しようとすると、眼鏡レンズが外れてしまった。下りは、上り以上に苦しかった。途中、一人ルートを間違ったかと思った。遅れているK君とK女史を待ちながら下降ルートを確認する。

先行しているMへの不信感が高まる。
登りもそうだったがチームワークとしてはバラバラである。
下山後、マッキンレー不参加を表明した一人は、
このチームワーク無さを理由に挙げていた。
二人も私と合流し安心したようだ。
お互い思考力が落ちているのが判る。遅れて五合目に到着した。

五合目に着いても頭はスッキリしない。
風邪もひいたようだ。こんなに苦しい下山行はなかった。
風雪で富士スバルラインは閉鎖、我々はチェーンを着けて下山した。
料金徴収所でゲートを開けていただき富士吉田市へ。

いつの間にか民宿に泊まることになり、
職場同僚佐伯さんから紹介を受けていた大富士荘に電話して
弟さんが経営する紅富士荘に泊まることになった。
ワイン1升5合をご馳走になり、良い気分でダウンする。

トレーニングの目的は果たしたのだろうか?
大きな課題を背負ったようだ。
個人的にもメニエル症候群は落ち着いたと思っていたが、
高山での影響は大きかった。
11月の職場異動での超多忙な状況は言い訳にならない冬の富士山。
高山病は厳しかった。

 2日、朝の起床もしんどかった。
富士山の西側、青木が原樹海、朝霧高原、白糸の滝を見学して、

白糸の滝
朝霧高原?

富士ICから東名に乗り帰路に着いた。

3日早朝帰宅して、次男の泳ぎ始めに付き合う。

後日長くせず一人が不参加を表明。
MとFは説得に努め参加となったが、
本番でも登頂成功の中でも大きな禍根を残し、一人は山から離れて行った。

私も3月に入り不参加を表明した。
仕事多忙な中では休暇取れないのが現実だったが、
一番の理由はこのチームワークのなさであった。 

山から帰り4日後、昭和天皇崩御。1月8日元号が平成に変わった
平成元年1月16日小柳ロードレース 10km48分19秒

小柳ロードレース一緒に参加の仲間

 

 

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