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山登り人生vol130大正時代の北海道

昭和53年度、20代最後の年です。
この年を振り返り投稿していますが、私の山登りから少し離れます。
創立25周年記念特集(山なみ24号)に寄せられた記事から
気になる昔の話を投稿します。

「山岳会創立25周年にあたりY会長」の記事

会長をやらされて25年が過ぎた。
74歳になった年寄りの冷水と言われるだろう。
この間に遭難死亡が一人あったことは誠に申し訳ない。
この他に2件の事故があったが
、二人共元気に山に行けるようになったのは嬉しい。
この3件とも岩場の事故だ。
私は8年ばかり北大にいたが、その間の死亡事故は2件。
いずれも北大予科に入学した大正13年に起きた。
5月、徴兵検査から帰ったら
定山渓温泉の上流で渡渉に失敗、一人行方不明。
寮生一同ショックを受けた。
死体が発見されたのは定山渓温泉の奥、炭酸泉の出るところだったとか。
5月の雪解け水で増水の時に、ザイルを使わなかったことが問題となった。

12月から2カ月、久留米十八大隊の勤務が終わり、紀元節に帰ってきたら「おこうが死んだよ」。
彼は、夏、大雪に行った時のリーダーだった。
出発前に私の部屋に来て、「私の兄を知っている。」と言った。
赤倉のスキー場で会ったと。
その頃はスキー部の中の山班といった時代で。スキー合宿は青山温泉。
ニセコアンヌプリからの下りに転倒して目を突き、脳膜炎を起こして死亡したという痛ましい事故があった。
捜索にも行った。冬だったが2回とも十勝岳、全員無事だった。

山岳部の合宿中は宿は独占だったが、合宿後は一般の人も集まった。
合宿が終わりまだ宿に残っていたとき、お客様が二人戻って来ない。
皆で三班に分かれて捜索に向かった。
私達は富良野岳に向かった。
シュプールを見つけたので、これを追って行ったら川辺で火を焚いていた。
無事に連れて帰ることができた。
他方面に捜索に向かったパーティーを呼び戻すのもひと苦労、トランシーバーのない時代だった。
ヘッドランプもない。自転車用のライトを胸に付けた。
東大出身で炭鉱に勤務していた者は、
鉱夫が使うヘッドライトを使っていた。

タイトル写真を含めネット借用。十勝連峰の遠望

紀元節に十勝岳に行くからと、私の処に道具を借りに来た。
ところが十勝温泉から、学校に昨晩戻って来ないとの通知があった。
急遽集まれとのこと。
ツェルトザックを忘れたのを思い出し、しまったと思った。
旭川に着いたら自力で無事帰ったと温泉から通知があったと、
駅員から報告があり安心した。
上富良野の宿に泊まった。一部のメンバーは馬橇で温泉に向かった。
明日は登って来い。噴火口近くにスキーを置いてあるから、取りに来いと温泉から連絡あり。途中で出会ったが、顔は焼きリンゴだ。
リーダーに後で聞いた話に、食料は宿に着くまでの残りがあったと。

私達の合宿は宿から日帰りだが、非常用食料は各自好みに合った物を一日分持って、リーダーの指示なしには手をつけるなと言われていました。
吹雪とミゾレには十分な用意をして貰いたい。
私の兄(慶応山岳部)が「お前、山に行くなら贅沢せよ。」と言った。
これは純毛を使えと言うのだ。
私達が中学校のときは純毛なんてなかった。
槙有恒さんの著書「山行」に、松尾峠の遭難のことを書いてある。
槙・三田幸夫・板倉勝宣、この三人の当時身に着けていた物を全部書いてある。これで綿とウールの差は歴然だ。

蔵書より
遭難死した板倉氏の装備。著書「山行」より

また、雪崩に対する注意を十分に、冬の雪崩は予測至難と言われている。
三田幸夫さんが、
室堂から剣岳往復を四月にやられたときのことを書いておられる。
私の兄もこの山行に参加している。

真っ白な雪の斜面に誘惑される。
しかし、尾根道が正しい道だと、
会員諸氏の楽しい安全な山行を祈念します。
 
 

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