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1976年ヨーロッパ山旅㏌よっちゃんガイアンの岩場

No196ヨーロッパ山旅 昭和51年7月15日~8月19日 3名

これまで「1月1日総括報告」「1月10日大阪空港から出国ボンベイまで」「1月18日ジュネーブ入り」「1月23日シャモニ入り」「1月28日シャモニ生活スタート」を投稿しました。少しづつ動き出しますが、最悪のスタートとなります。ただ日本人女性の自然療法で救われました。

7月20日(火)雨のち晴れ ガイアンの岩場へ

20ガイカンの岩場

今日は最悪の日となった。
私は風邪気味、薬服用
Iは相変わらず蕁麻疹
Mは時差ボケも解消、良好。

13時BC出発、スネルスポーツに寄った後、ガイアンの岩場に向かう。
13時40分 岩場到着
15時 私岩場で滑落、顎にエンピツ大の穴開ける。傷大きい。
16時 近くにいた日本人大竹、盛谷さんが済むハウスで治療を受ける。
20時 IとMは車で送ってもらいBCに戻る。私はベットでダウン。

こんな体調が悪い中で岩場に取付き、ちょっとした不注意により事故に繋がったことを深く反省する。これから先どうなるか不安で一杯である。
この日は朝から雨が降っていた。昨日までは体調もまあまあであったが、朝から具合が悪い。風邪をひいたようである。赤袋の薬を飲んでシュラフで横になる。汗がでる。食欲もない。
薬を飲んでいながら動いたことが事故に繋がった。Iも蕁麻疹に悩んでいた。日本出発前より薬を多用したせいだろうと本人は言う。他にも旅の疲れや緊張、食事の変化もあるのだろう。

キャンプ場

スネルスポーツ

スネルスポーツに立ち寄ってシャモニの街を過ぎて岩場に向かう。途中、冷や汗をかき回復していないのが分かった。2∼3回道を尋ねてBCより40分程で岩場に着きました。岩場は道路の直ぐ右側にありモンブランを対峙する場所にあり、一般見学客も多く4~5段のベンチまで設置してありました。親子や恋人同士、学生達と思い思いに岩を楽しんでいるようです。

20岩場位置図

私はMとIが登るのをベンチから眺めます。二人は右手から15m登った。BCで一緒の東京からの二人もやって来た。M中央に取付くも調子悪く止める。恋人同士が楽に登ったのを見るとシャクになったようである。私もなんとなく登ろうという気になった。これが誤りだった。左側を10m直上して右に5~6mトラバースすると中央ルートの終了点に達した。ザイルが交差しており潜って登り、右手に廻り込んで下った。事故があったのはその後、岩場の一番右側にクラックが走っていた。こんなクラックがシャモニ周辺には多いとMが取付いた。登れなかったので私が取付いた。ホールド、スタンスは全くなく、手足をこねて登らなければならない。2m程登って身体が軽くなり、次の瞬間ハンマーで蹴上げられたような強いショックを受けた。それは三歩目の足を上げようとした時、右足は私を支えられずの出来事であった。運悪く次の段まで落ち顎を打ったのである。

ガイアの岩場

横に倒れた私は暫くどうすることもできなかった。痛みは激しくなりボーットしている。「薬草がないか」「大丈夫か」「傷口が大きい」とかの言葉が響いた。病院に行こうと言っているところに岩登りを見学に来ていた日本人男女の二人が私の傷を見て、この程度なら自分達が研究している自然療法で治せると言ったので彼らに任せることになった。

20日泊

彼女が電話で車を呼ぶ間、気が遠くなりそうだった。私達の荷物は東京の二人が持ち帰ってくれた。彼女達の家はボソンの少し先で部屋に入りテーブルの前に座った。解熱剤としてごま塩を舐めさせられた。二口目を舐めた途端、貧血を起こして倒れてしまった。気が付いた時はベットの中だった。右足も打撲しているようである。身体全体をベットに静めた。うす暗いベットの部屋に彼女が食事を運んできてくれた。玄米で作ったものに薬草スープを混ぜたお粥だったが、スープが多くスプーンですすった。最初は抵抗なく食べられたが、二回目からはすんなり喉を通らなかった。香煎のような味だった。傷口にはサトイモ、ショウガなどを煎じたものに先ほどのスープで混ぜ合わせたものを貼付してあった。これが乾く頃、彼女が付替えに来てくれた。MとIは味噌汁等日本料理を16FFでご馳走になりBCまで送ってもらい帰って行った。

モンブラン全景 (2)

自然療法とは、身体の回復力を助長するために玄米や野草などの自然食を食事に取り入れる。傷等の治療にもそれを活用して治す方法である。人間の体は全体的にアルカリ性であり酸性に変えることで回復力が増すらしい。アルコールは元論、水類まで厳禁される。これには参ってしまった。

次は7月21~22日休養とボソン氷河を投稿します。



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