山登り人生vol116瀬戸の岩場
28歳。長女3歳、長男2歳。
昭和52年度は黒髪づくし龍門づくし、この山行を振り返ります。
牧の山南面の主な沢をトレースし屏風岩西稜もルートを作り概念図作成し長崎県民体育大会山岳競技も開催し、竜門渓谷を紹介しました。
沢から岩へ。12月には衝立岩を完登し、
次に目指したのが牧の山西斜面の「瀬戸の岩場」です。
鍋島藩軍馬牧場跡付近の岩場です。
No232忘年登山と瀬戸の岩場発見
昭和52年12月10~11日
Y会長、M医師、M社長、T先生、I、H先輩、
I三姉妹中姉ちゃん、S、私とファミリィ
10日は忘年会で山の家に集った。
翌11日、Y会長、M医師、T先生、H先輩、
I三姉妹中姉ちゃん、私とファミリィで牧の山西面の林道を廻り込み、
瀬戸の滝を見たが、面白そうだと食指が動いた。
No235瀬戸の岩場
昭和53年1月29日
M社長、U、T先生、Mと私
U氏の報告より
会長宅を8時半に出発して、広瀬集落を左に折れて林道を進む。
斜面一面に枯草が生い茂った見晴らしが良いところで車を降りる。
堰堤の右沿いに登れば直ぐ落差40m程の「瀬戸の滝」にぶつかる。
滝の左側に圧倒するような岩壁が続いているが、
その中央やや左寄りのところにSさんがハーケン3本打ったルートがある。
今日はこれを更に延ばすつもりでMさんが取り付く。
残りの者で焚き火ができるように石を丸く置いたり、
岩壁に絡まっているカズラを切って登りやすくする。
その2m右にカズラが繁ったところ(仮称:カズラルート)を私が鎌で払いながら第1テラスまで登る。
Mのルートもここで合流。
ボルト2本を打って、懸垂下降で下り昼食。
昼食後、F(私)さんがM社長の確保で第1テラスから上を拓く。
ボルト連打で10m程延ばしたところで、本日の登攀を終了する。
この岩壁はかなりスケールが大きいので、何本もルートが採れるし、
上部は少しづつハングしており本格的な登攀が楽しめそうだ。
※2月1日SSK経営縮小1/3体制に
Uの記録より
昭和53年2月12日
MとU(私は不参加)
10時頃取付いたらS山岳部の4名がやって来た。
昨日の続きを登るらしい。
こちらは第1スラブで私(U)が確保し、
Mがボルト6本を打ちルートを延ばした。
取付きから25mほど登って14時40分に終了する。
No237瀬戸の岩場中央クラック初登
昭和53年2月19日
M社長、T先生、M、K女史と私
取付10:00→12日終了点11:30→第2テラス17:00→18:00終了
今日中に完登する意気込みで取付く。
第1テラスまで上がって、ダブルザイルで確保し安全をはかる。
途中で交代できないのでMにすべて任せる。
連絡用のザイルで時々水や食料の補給を行う。
太陽が隠居岳に沈み、暫くして終了した。
8時間も一人頑張ったMは、さすがに疲れたらしく懸垂下降する力もない。
岩壁を大きく北側に回り込んで車に戻ってきた。
皆の拍手に迎えられ帰路に着く。
中央クラック(2P50mⅣ級)と命名し初登日とした。
No238瀬戸の岩場中央クラック
昭和53年2月26日
Sと私
中央クラック取付10:20→12:00終了
先週Mが残したカラビナ回収のため取付いた。
終了点より懸垂下降のためザイルを垂らすが3~4m足らなかったので、
北側に回り込み左ルンゼ(仮称)より懸垂下降する。
ノルマルルート
昼から一般的なルートを拓こうと左ルンゼの直ぐ右側の壁に取り付く。
カツラを取り払ってみると意外と急傾斜であった。
10mほど階段状の岩場を登ってテラスに着く。
これより7~8mの垂直なクラックが走っている。
ボルト2本、ハーケン4本を打って抜けたところで時間切れ。
17時30分帰路についた。
No239瀬戸の岩場ノルマルルート
昭和53年3月19日
T先生、H先輩、K女史、Sと私
ノルマルルートと更に右側の壁に取り付いたが調子がでなく、中途半端な一日となった。
瀬戸の岩場の記録は、この5回のみとなっている。
一気に熱が冷めたのかな?
竜門渓谷や屏風尾根への登山は唱和53年度以降も継続しますが、
昭和52年度での地域研究「黒髪山系」の投稿は、これで終わります。
最後に黒髪山系の図書を紹介。
伊万里市在住の松尾優氏の著書「黒髪の自然」「黒髪山系の植物」は
同氏が長年の研究成果をまとめたもので黒髪山系を知るうえで必見です。
「黒髪の自然」には所属していた会の松村哲男会長も寄稿しています。
これで地域研究「黒髪山系」昭和52年山行、最後の投稿かと思ったが、
これを成し得たパートナーの存在があった。
次回、M社長のことを辿ります。
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