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山登り人生vol26春山合宿穂高連峰その3
22歳の春、青春真っただ中。
山日記には詳しく記述しており3回に分け投稿しました。
その3は北穂高岳登頂から下山までです。
No46春山合宿(穂高連峰)
昭和46年4月27日~5月3日
7名(名前は省きました。)
4/27 佐世保(急行西海1号)⇒
4/28 大阪(急行比叡)⇒名古屋(急行赤倉)⇒松本(タクシー)⇒上高地→徳沢幕営
4/29 徳澤停滞
4/30 涸沢BC入り
5/01 白出のコル→奥穂高岳登頂
5/02 北穂高岳→涸沢岳手前のコル→BC→上高地(バス・汽車)⇒松本信州会館
5/03 松本(急行ちくま1号)⇒名古屋⇒大阪(臨時急行西海52号)⇒
5/04 佐世保帰着
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2日 北穂高岳登頂
この日は、晴のち曇のち雪。稜線は吹雪。
12時に一度目が覚める。
その後、2時。Sの起床の声で起きた。
朝の献立は早くできるよう計画していたが、出発は3時半となる。
起床して1時間で出発できるといいのだが。K女史は休養となる。
M先生をトップに北穂沢に足を踏み入れる。
登りは急で、アキレス腱が痛い。ジグザグ気味に登って行く。
涸沢団地が段々と小さくなる。まだ2∼3パーティーしか行動していない。
天気は下り坂であるのに。
夜も明け出す頃、トップをKMさんに交代する。
日の出も近くなりルートを南稜の斜面にとり、トレースのないルートを登る。
半分以上登った所で、東の空が赤みを帯びてきた。
暫く休んで、シャッターを動かす。
空の方は、絹雲が増えたようである。
ラッセルを交代しながら登るが、このアルバイトは苦しい。
初めてのラッセルだが、上手くいかない。体力が要る。
北穂沢には3~4パーティーが入っている。
沢の中央部を統制されてパーティーが登って来る。
大学山岳部らしい。アイゼンは着けていなかった。
![](https://assets.st-note.com/img/1681854898758-dN5hLJZQUB.jpg)
我々はトレースのあるルートに戻り北穂に向かう。
この沢は一気に3,000m以上の稜線まで突き上げている。
傾斜もきつい。北峰と南峰のコルに着くと、目前に滝谷が迫ってくる。
吸い込まれそうである。
滝谷登攀者のテントが強風に煽られている。
コルから数分で北穂山頂に着く。
展望は素晴らしい。
奥穂高岳からは見えなかったキレットや槍ケ岳が良い。
黒部五郎岳、薬師岳の山なみの説明を聞くが、はっきり判らない。
ただ白い山なみがどこまでも続いている。
![](https://assets.st-note.com/img/1681855024534-cICuYSTRaH.jpg)
ここで槍ケ岳縦走組(KS・T・KM)と穂高縦走(M先生・S・私)は、固い握手をして別れた。
やはり気になるのかM先生、北穂小屋の方に下って彼等の様子を確認する。
最初の雪田の下り、落ちたら最後である。
数百mはあるようだ。
雪の状態も悪い。
1∼2cmの氷の上に新雪が積もり、幾層にもなっている。
今、彼らが下ろうとしている斜面も同じである。
アイゼンの利き具合も不安定である。
また、天気も心配された。
TさんKMさんの実力では無理と判断したM先生が彼等の縦走を中止と判断した。急斜面に2∼3歩、踏み出したところであった。
北穂小屋主人の友人か、「坊主も居るからよ・・・・・・」。
お世話になったらお終いである。
KSリーダーも、M先生から引き止められなかったら事故を起こしていたかもと。
T・KMさんの二人は、槍ケ岳には行きたかったようであるが
キレット通過は無理であったと言っていた。
結果、6人で穂高縦走することになった。
縦走し涸沢岳手前コルからBCへ
遠く西の空には高層雲の雲提が、この穂高連峰を目かけて流れている。
風も強くなる。吹き上げてくる粉雪に顔を痛められる。
南峰を越えてアルプスらしい岩尾根を歩く。
飛騨側は大きく切れている。
滝谷である。
KMさんのバランスが悪い。
途中、風を避け間食を摂る。
ラジュースを起こしてと準備にかかるがメタがない。
生でやるがダメ。
生では発火点まで温度が上がらないからダメと言われる。
先行パーティーがザイルを使っているので、暫く待機する。
ルンゼ状の箇所が凍っているようだ。
先頭の人が雪田に入ると、確保していた人は右のバンド状の箇所より下っていった。
我々もそれに続く。岩稜はこの部分が最後であった。
ここを過ぎるとコルに着いた。
ここでは2∼3日後、二重遭難が発生した。
白出のコルまで行く予定であったが、天気の方は崩れる一方である。
涸沢岳手前のコルから稜線と別れ下ることになった。
稜線を先に行くと、涸沢槍から涸沢岳へと続くのである。
ここまで以上に面白いコースのようだ。
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BCに向け尻制動である。思うように滑らない。
Tさん、途中ロングスパッツの紐が外れたようだが、M先生曰く、雪山では許されないと。BC着8時。
ゆっくり休養しようとしていたK女史はびっくりである。
BC撤収し下山へ
9時の天気図で、今後天気回復は望めないと判断し今日中の下山が決まる。
早速腹ごしらえして、下山の準備にかかる。
奥穂高岳も見えなくなった。
![](https://assets.st-note.com/img/1681855429239-DdeoF4W3rp.jpg)
![](https://assets.st-note.com/img/1681855429229-OfnKDSMILv.jpg)
12時30分、涸沢を後にする。
まだ連休の中日、入山パーティーがどんどん登って来る。
背にした山に未練は残るが、それを打ち消すかのように早足で下る。
苦労して登った雪渓は、あっという間に下ってしまった。
時々、雨に見舞われる。横尾では諫早パーティーを探したが見当たらない。
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徳沢園ではM先生よりラーメンをご馳走になるが、インスタントにカマボコ
2枚を入れただけのもので、我々が作る山のラーメンと変わらなかった。
上高地では、予約していたタクシー会社がストに突入しており、バスと電車で松本に向かった。
信州会館で下山祝いにビールを飲み、今年の春山合宿が終わる。
S、Tさんは夜行で帰る。
残りは信州会館に泊まる。
![](https://assets.st-note.com/img/1681855671378-SHfJx8Aegp.jpg?width=800)
3日帰宅。ソバアレルギーのT女子
朝食は,駅上の日本食堂で。
出発まで時間がありお土産の買い物などで時間を潰す。
時間が近づきキスリングをチッキで送る。
11時04分、急行ちくま1号は11時36分になっている。
駅そばを食べホームに入り汽車を待つ。
K女史、具合が悪いと言い出した。
顔を腫れ赤くしている。
汽車がホームに入り取りあえず乗り込むが、容態は悪くなる一方である。
本人は食中毒と言う。蕁麻疹も出ているらしい。
塩尻駅で薬がないか尋ねるが手配できなかった。
我々の薬も送ってしまった。
こちらが心配しても何にもできず、イライラする。
トイレに入ったまま出てこない。
出てくると峠は越えたというので、少し安心した。
名古屋までは横になったままである。
大阪到着は19時過ぎで乗り換えが気になったが、臨時急行西海52号が運行しておりホットする。
大阪でまだ腫れが取れないK女史、親戚の家に寄って病院にかかるという。
彼女と別れ夜の大阪をブラつく。
M先生、KSさんに付いて行くが、どこをどう行っているのか判らない。
西海52号は全席指定車と慌てたが、座席は確保できた。
汽車に乗り込むと車内はガラっとしていた。
無事帰宅する。
母親は6日帰宅予定が4日とびっくりしていたが、テレビで谷川岳遭難をテーマにした番組が放送されたらしく、夫婦で口論したとか。
無事山は終わったが、K女史のアクシデントは禍根を残した。
K女史は2日間大阪で療養し帰佐したが、病気は完治していないとのこと。
見舞いに行ったが、ご両親から下山後直ぐ病院に行ってもらいたかったと苦言をいただいた。
一旦仕事に出たらしいが検査の結果、肝臓の方を傷めたらしく今も自宅療養(5月26日)している。
物足りない合宿であったが、これで良かったのだろう。
3・4日には多くの山岳遭難があり、新聞紙面が賑あっている。
昭和40年につぐ遭難が発生したらしい。
日焼けはあまりしなかったが、一週間ほどで一皮剥けた。
ここまでが山日記の内容です。
日記記述には濃淡があり、3回に分け投稿しました。
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