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ビル・ベックとカラーバリア
毎年4月15日には、MLBのカラーバリア(人種差別)を破った黒人選手ジャッキー・ロビンソン(Jackie Robinson)の栄光を讃え、彼が付けた背番号「42」のユニフォームを全選手が着用するという「ジャッキー・ロビンソン・デー」が開催される。
今日先発登板した菊池雄星や藤浪晋太郎も背番号「42」を付けている。
Kik' back, relax, and watch Yusei strike out NINE hitters 🔥 pic.twitter.com/WaOE2u70qq
— Toronto Blue Jays (@BlueJays) April 15, 2023
メジャー移籍後初のQSを達成した #藤浪晋太郎
— SPOTV NOW JAPAN (@SPOTVNOW_JP) April 15, 2023
6回を投げ切った際には大きなガッツポーズ&笑顔が見られました😆#アスレチックス #Athletics#SPOTVNOWで毎日MLB pic.twitter.com/qxTNcq1DxO
ジャッキー・ロビンソンがブルックリン・ドジャース(Brooklyn Dodgers、現在のロサンゼルス・ドジャース)でデビューしたのは1947年。今から76年前のことである。
ロビンソンが黒人初のメジャーリーガーだったかというとそれは違う。
1884年にモーゼス・フリート・ウォーカー(Moses Fleet Walker)という黒人選手がトレド・ブルーストッキングス(Toledo Blue Stockings)という今はなきチームでプレーした記録が残っている。
またアメリカ野球学会の研究によると、ウォーカーより前の1879年にプロビデンス・グレイズ(Providence Grays)でプレーしていたウィリアム・エドワード・ホワイト(William Edward White)が黒人初のメジャーリーガーだったとも言われている。
ロビンソン以前にも黒人選手はいたが、圧倒的なマイノリティであったことは間違いない。そしてウォーカーがプレーした1884年以降、ロビンソンがデビューする1947年まで黒人選手がMLBから排斥されていたことは事実である。
故にロビンソンが63年ぶりにそのカラーバリアを破ったことは歴史的な偉業として色褪せることはない。
ロビンソンが成功したことで、ドジャースはロイ・キャンパネラ(Roy Campanella)やドン・ニューカム(Don Newcombe)ら黒人選手を起用し、チームの黄金時代を築くことになる。
その仕掛け人がチームのGMであったブランチ・リッキー(Branch Rickey)である。
ロビンソンの半生を描いた映画「42〜世界を変えた男〜」でハリソン・フォードが演じていたと言えば思い出してくれるだろうか。
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今日はリッキーと同時代に生きた名オーナー、ビル・ベックとカラーバリアをめぐるアナザーストーリーである(前置き長くてすまんな)。
ロビンソンのデビューから約3ヶ月後にクリーブランド・インディアンス(現ガーディアンズ)でデビューした2人目の黒人選手がラリー・ドビー(Larry Doby)である。
Today, like every year on April 15th, we honor the legacies of both Jackie Robinson and Larry Doby.#ForTheLand pic.twitter.com/r5IgvSm5oA
— Cleveland Guardians (@CleGuardians) April 15, 2023
ドビーはメジャー引退の3年後に現役復帰し、中日ドラゴンズで1年間だけプレーしたこともあるため、日本のプロ野球ファンでご存知の方もいるかも知れない。
2023年現在ではリッチ・ゴセージ(Rich Gossage)と並んでNPBでプレーしたことがある数少ないアメリカ野球殿堂表彰選手である。
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インディアンスはドジャース以上に黒人選手のメジャーデビューを推進した。ドビーに続いて、当時ニグロリーグで伝説的なエースとして知れ渡っていたサチェル・ペイジ(Satchel Paige)がデビューしたのもインディアンスである。
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後にシカゴ・ホワイトソックスなどで活躍するミニー・ミノーソ(Minnie Miñoso)や、伝説的なスラッガーであるルーク・イースター(Luke Easter)もインディアンスでデビューしている。
ドビーやペイジらがデビューした頃、インディアンスでオーナーを務めていたのがビル・ベックである。
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ビル・ベックの父親はシカゴ・カブスの社長を務めたことがある人物である。ベックは若い頃から父の手伝いで経営に関わり、今も残るリグレーフィールド外野フェンスの蔦の葉はベックの発案だと伝わっている。
She’s here and she’s perfect. 🌱 😍 pic.twitter.com/Nk6pyM4X8e
— Chicago Cubs (@Cubs) May 16, 2022
ベックの本質はエンターテイナーである。後にセントルイス・ブラウンズ(St. Louis Browns、現在のボルチモア・オリオールズ)でオーナーを務めた時に、小人症であったエディ・ゲーデル(Eddie Gaedel)を代打で起用して球場を沸かせた。
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ミゼットプロレスというものがあるので発想としては似ているが、誰も思い付かなかった卑怯な策である。身長約109センチのゲーデルはその分ストライクゾーンも狭くなるため、投球はコントロールが定まらず、ゲーデルは四球で出塁する。
ロビンソンがドジャースでデビューして話題を呼ぶと、ベックはニグロリーグの有望株であったドビーをインディアンスでデビューさせる。
ブランチ・リッキーがロビンソンをデビューさせるために、前年からマイナーリーグで経験を積ませたのに対して、ベックにはそのような計画性が見られないように思える。
後にベックは自伝の中で、ロビンソンとドビーのメジャーデビューより5年前に、経営悪化していたフィラデルフィア・フィリーズの買収を計画し、その時に黒人選手をデビューさせようとしていたと語っている。
この計画は断念せざるを得なかったというが、MLBのカラーバリアを破ろうとした異端の経営者、ビル・ベックを代表するエピソードとして長らく語り継がれてきた。
しかし近年ではベックの証言に対して疑問符が付けられることになっている。
ベックは自分の努力が「野球界全体で知られている」と主張したが、研究者はベックの自伝以前に言及された例をほんの一握りしか見つけられておらず、そのほとんどがベックの発言に基づくものだった。1947年、ベックが2人目の黒人メジャーリーガー、ラリー・ドビーと契約したとき、彼はその5年前に野球を統合しようとしたことについて言及しなかった。
ベックの真意は今となっては藪の中だが、黒人選手がMLBに多くの観客を呼び込むだろうという読みは的中させた。
ドビーに続いて翌1948年にデビューしたサチェル・ペイジ初登板の試合では、本拠地クリーブランド・スタジアムにはペイジを一目見ようと3万4000人を超える観衆が訪れた。
ペイジが先発登板する日は常に満員御礼の大入りで、遂に8月20日の試合で観客は7万8000人を超えた。
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1948年のインディアンスにはボブ・フェラー(Bob Feller)とボブ・レモン(Bob Lemon)と2人のエースがおり、二遊間にはジョー・ゴードン(Joe Gordon)とルー・ブードロー(Lou Boudreau)のキーストーンコンビがいる強豪チームであった。
そこにラリー・ドビーとサチェル・ペイジが加入した無敵のインディアンスはこの年ワールドシリーズを制覇することになる。
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インディアンスの覇権は長続きせず、翌年リーグ優勝を逃すとベックは皮肉を込めて前年の優勝旗をスタジアムに埋める「葬式」を開催した。
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ビル・ベックはセントルイス・ブラウンズのオーナーとなると、現役引退していたサチェル・ペイジを復帰させてブラウンズに呼び戻した。
また前述の通り小人症のゲーデルを代打で起用したりと、話題作りには事欠かなかったものの、インディアンスのような強豪チームを作ることは能わなかった。
シカゴ・ホワイトソックスのオーナーになった時は、当時50歳であったミニー・ミノーソを現役復帰させて話題になった。
ミノーソはさらにその4年後の1980年にも現役復帰し、1940年代から1980年代にかけて出場した「5ディケイド・プレイヤー」に仕立て上げた。
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ビル・ベックという人物は黒人選手の夢を叶えるというような崇高な精神の持ち主でなかったかもしれない。
しかし黒人選手がMLBで活躍すれば観客はスタジアムに足を運び、球団の経営が潤うということは確信していたに違いない。
球団経営を良くするためには、黒人選手だろうと、小人症の青年だろうと、ロートルになったかつてのスター選手だろうと、ユニフォームを着せてプレーをさせた。
それはベックの経営者としての才覚であり、結果的にインディアンスはドジャースに続いてカラーバリアを破るフォロワーになったのだ。
インディアンスが続かなければ、ジャッキー・ロビンソンとブランチ・リッキーが踏み出した第一歩は孤独な一歩に終わっていたかもしれない。
そのように低俗なフォロワーの力が時代を動かすこともあるのだ。
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